映画・テレビ

秒速5センチメートル

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秒速5センチメートル。桜の花びらが落ちる速度だ。

幼い恋をいつまでも包み込むようで、でもいつかは地にたどり着いて季節の終わりを告げる速度。

"来年も一緒に桜を見よう"

それは恋のような、儚い約束だった。

新海誠監督作の3話から構成されている連作アニメ「秒速5センチメートル」。

第一話「桜花抄」

幼い遠野と明里の初恋を描いた第一話「桜花抄」

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僕たちはどこか似ている。

まだその気持ちを恋と呼ぶことも知らず、それでも遠野と明里はお互いの事を幼さゆえの純粋な心のままに必要としていた。

しかし、お互いに"慣れている"転校によって明里が遠くにいってしまい離れ離れになってしまう。
東京と栃木といえど、それは小学生にとってはあまりに遠すぎるものだった。

互いの事を失わないように手紙のやり取りをしているなか、遠く離れてから一年後、もう一度桜の季節が来る少し前に遠野の転校が決まる。
二人の距離をさらに遠ざける転校。物理的な距離が遠くなるほどに心の距離までも離れてしまうような気がして、二人は1年ぶりに会う約束をする。

初めて一人で来る新宿駅。靴を濡らす記録的な大雪。吹雪の中、遅々として進まない電車。

時間が悪意を持って二人の上を流れていった。

約束の時間から四時間遅れた、小さな駅の待合室に彼女が座っていた。

距離も、時間も、まだ二人の約束を引き裂く事はできなかった。

新雪で埋まった道に二人の足跡だけが残り、二人は幼い恋心を分かち合った。

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第二話「コスモナウト」

鹿児島に転向してきた遠野のことを想い続ける花苗の恋を描いた第2話「コスコナウト」

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高校3年の夏、クラスメイトが進路を決めていく中、自分が何したいのかだとか、未来のことだとかなんて考えられない花苗。
姉にねだって始めたサーフィンも、中2のころに転向してきた遠野への思いも、立ち止まったまま動けずに高校3年生という時が花苗を追い立てていた。

カブを止めた駐車場の前、柱の陰に隠れて遠野を待つのが日課だった。
偶然を装って遠野に声をかけて、帰り道いつものコンビニでどれにするかを悩みながらパックの飲み物を買って、少しの間だけベンチに座って二人きりでいられた。

彼はいつも誰かにメールを打っている。

駐車場で"偶然"に彼と会えなかった悲しい帰り道、小さな丘の下。道の端に彼のカブを見つけた。
駆け上がって見つけた彼はやはりメールを打っていたけど、いつものように優しい言葉で花苗の悩みを解いてくれた。

"あたし、明日の事もよくわからないんだよね"

"たぶん誰だってそうだよ。今できる事を何とかやってるだけ"

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彼の言葉はいつも、切ないほどにやさしい。

未来の事なんて考えられないんだから、目の前にあることを一つ一つ頑張っていく。
まだ夏がわずかに残る朝、そう姉に告げた花苗は、半年ぶりに波に乗ることができた。

今日じゃなければもう2度と遠野に思いを告げられそうにない。

いつものコンビニで花苗は悩まずに遠野と同じジュースを買った。

ベンチの前、ふいに遠野のシャツを掴んで花苗は声をしぼりだす。

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"やさしくしないで"

言葉にすればこわれてしまいそうな想い。それが花苗の精一杯だった。

それでもなお、カブが壊れてしまった花苗とともに歩いて帰ると言う遠野。

切ないほどの思いは花苗の心を締め付けて言葉にならない。

ただ涙だけが流れて来て、どこまでも高い空の下、花苗は自分の思いの行方を知った。

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第三話「秒速5センチメートル」

あの雪の日から時は流れ遠野は大人になっていた。

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ずっと心の中にある何かに手が届くようにと、ただ前に、前にと進んできた。
3年間付き合った女性は、「1000通メールのやりとりをしてもあなたとの心の距離は1センチしか近づかなかった」と遠野にメールをした。

明里は遠野にメールを送る。
「お久しぶりですね。ずいぶんと迷ったけど、やっぱり私は遠野くんに伝えなければいけないことがあります。」

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遮断機の向こう、電車が通り過ぎたあと、振り返った遠野の目にいつかと同じように桜の花びらが秒速5センチメートルで舞っていた。

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感想

感想なんて書く必要がない気もする。つまりは上のような文章を書きたくなってしまう作品だった。

自分の文章が読む人にどう見えるかっていうのはわからないけど、この作品で生まれた感情を残しておくために、気持ちのままに文章を書いた。
一部の男にとっての恋のかたちを生のまま取り出したようなきれいな物語だった。

ストーリーとは少し離れたところで感想を。
サマーウォーズとかエヴァンゲリオンみたいに、実写じゃ撮れないようなものを作り上げられることがアニメの長所だと思う。
それにくらべて秒速5センチメートルは、実写で撮れないようなものは一つもない。

でもどのワンシーンを切り取っても、どんなきれいな写真よりも、世界遺産の風景よりも、きれいな絵だった。
この作品の監督にはどんな風に世界が見えているんだろう。
どれだけの力があればそれをこんなにも鮮やかに表現できるのだろう。
みんな同じように景色が見えてるという当たり前のことが、本当はそうではないことを気づかされた。

嘘みたいだけど、これを見終わった後外に出たら空のきれいさにびっくりした。
そうやって少しづつ、僕も世界を見られるようになりたい。

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【映画】BALLAD 名もなき恋のうた

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今日は友達とBALLADを見てきた。

クレヨンしんちゃんの映画を原作にした作品だ。

どれくらいの人がその事を知ってみているのかわからないけど、クレヨンしんちゃんの方を見たことがある人はこの映画を見てる間中「この先あんなことになっちゃうから」という思いを持って見ると思う。

そういう意味では期待を裏切らないし、素直にいい映画だと思う。

演技もアクションも期待を裏切らないレベルだったし、原作の良さを十分に活かしていると思った。

なので、「BALLAD見たいな」と思った人にはオススメできる。よい映画でした。

せっかくなのでグダグダ言うと、原作をもう少し裏切って欲しかった。

まず、又兵衛は死ななくてもよかったんじゃないかな。最後に渡された携帯に玉がぶつかって助かる形とかで。そういう裏切りは原作ファンも歓迎だったと思う。というか最後の方ずっとそう願いながら見てました。

何しろ原作見た人たちにとってはあそこで又兵衛が死んでしまうのはわかりきっているはず。僕はそうなる事を知っていた分、それより前の楽しげなシーンや姫と気持ちが通じるシーンでつらくて泣いてしまったけど、死んでしまったシーン自体では感動できなかったです。

他にもアニメだからこそ許された設定をそのまま踏襲してしまって、ちょっと筋が通らなくなってしまってる部分が多々ある。

例えば主人公一家が過去にタイムスリップしてしまうのもアニメなら理由なんていらないけど、実写ならタイムスリップして又兵衛や姫を助けに行くという事の理屈を通さなきゃいけないと思う。

彼らを救わないと、現代の主人公たちに何らかの災いが起こるとか。一番単純にするなら全てが解決して現代に戻った後に主人公が又兵衛の子孫だったとわかる、とするとか。(又兵衛が死なないっていう風に話しを変えて。)

そういう事をせずに3分くらいで主人公の成長を描くための前フリをして、「成長するためにタイムスリップした」とされてもちょっと薄すぎる気がしました。

それに主人公と又兵衛の信頼関係が築かれるエピソードとか、又兵衛と姫のやりとりとかが足りなくてちょっと物足りなかった。

大蔵井の人があんなに姫に執着するような理由となる部分も薄かったし。

そんな感じで基本的には原作に忠実足らんとしてるのに、一方で主人公の性格を完全に変えたりしていて、結局「原作ファンに怒られない程度にはちゃんと原作どおりにしましたよ」みたいな気がした。

ま、良くも悪くも期待を裏切らない"良い映画"でした。

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松本人志のお笑い映画は日本では成功しない

松本人志の映画は笑いのための手段にすぎない

今週末に松本人志監督の「しんぼる」が公開となる。

前作の「大日本人」にがっかりさせられた方は沢山いると思うし僕もその一人だ。
実際、あれほど終演後に観客が浮かない顔をしていた映画は「ゲド戦記」くらいだろう。

今回の「しんぼる」も間違いなく日本では低評価の嵐となるだろうと思う。

松本人志監督は映画を作製する理由について、「放送室」や直近のインタビューでも「テレビでやっている笑いの延長線」、「テレビが(規制で)窮屈になったから映画で笑いをやることにした」といったように一貫して自身の映画製作があくまでも笑いを作るための手段に過ぎないと述べている。
もちろん今回の「しんぼる」もお笑い作品として作っている。

テレビと映画の違い

松本人志監督が気づいていないはずはないと思うのだが、笑いという座標軸においてテレビと映画は延長線上に位置づけられない。
なぜなら基本的に映画というものが"お金を払って"、"映画館に出向いて"見るものだからだ。
観客にこのような主体的行為を求める映画という性質が、どうしても笑いと相反するのだ。適当につけたり消したり出来るテレビとは根本的に違う。
さらに"松本人志"という名前の圧迫感。
この二つの要素があわさって"松本人志のお笑い映画"が絶対に日本で成功しないように作用しているのだ。

映画を見に来る観客の姿勢

上記2つの理由を踏まえれば松本人志のファンか否かに関わらず、彼の作品を見る観客の心構えとは大体以下の通りだと思う。
「あの松本人志が作った映画、相当笑わせてくれるに違いない」

この心構えが笑いにとっては致命的だ。
前に書いた"「めちゃくちゃ面白い事あったんだけど」といって話を始める奴"と同じフレームになってしまっているのだ。

主体的行動を求める映画という形式だけでも「面白いものを期待して行く」というフレームになってしまっているのに、ましてや松本人志というお笑いの頂点が作った作品である。観客のハードルは上がりきってしまう。

ライブと映画の違い

しかし、例えば"お金を払って"、"自ら出向いて"、"松本人志の笑いを見に行く"というフレームで言えば松本のライブを見に行く事と同じだと思う。
おそらく今ダウンタウンが単独ライブをやれば、「さすが松ちゃん」と言えるだけの笑いを取るだろう。
この点でも映画という手段が障害を作ってしまっている。
ライブでは客の雰囲気を感じ取って、それに対応した笑いを出す事で一気に引き込む事が出来るが、映画は松本からの一方通行でしかない。
過度に期待して緊張している観客がいるなら、ライブが始まって出てきた瞬間に「やっぱ帰るわ」「なんでやねん」の掛け合い一つで観客の緊張を解くことが出来る。

だから映画でも一発目にすかし的な笑いを入れる事で客を引き込む事ができると思うのだが、一方で松本自身に映画というフレームで作品を作る事に対する美意識があるようで、作品の世界観を壊すようなライトな笑いは入れてこなさそうだ。
(前回の「大日本人」であれ「しんぼる」であれ、発想としては相当面白い設定だと思う。そして凝っている。120分の物語として笑いとは違う部分で客を楽しませようという精神があるのだと思う。)

松本信者

あと、観客達の笑いのさぐりあいも痛い。
松本信者によくいる「松本の笑いが分からないやつはレベルが低い」という風潮のせいだ。この意識のせいで映画館で笑いのさぐりあいになってしまい、「ここでおれは笑って良いのか」という雰囲気が出来て中々笑いが発生しないのだ。

結果的に松本人志自身が好きなマニアックな笑い、一週周った笑いが一発目に飛び出して、それに対して観客同士の笑いのさぐりあいが発生して微妙な空気のまま2時間が過ぎてしまう。

ともかくこの"笑えない"構造をひっくり返す一発を放たない限り"松本人志のお笑い映画"が日本で成功する事はないと思う。
そうでなければ今週また僕は「納得言ってないけど納得言ってないとは言えない」という中途半端な顔をした観客の顔を見る事になるだろう。

個人的に設定の発想はかなり面白いと思うのでお笑いとしてではなく、たけしのように一映画監督として作品を作ってほしいとは思う。

追記:「しんぼる」に関しては松本が「世界に向けて作った」と述べている。
言語の壁、文化の壁を出来るだけ感じさせないように作っているのだろうし、比較的マニアックではないようにしてあると思う。
それでもなお、松本人志という笑いが浜田という媒介無しに人に伝わる事は無いと思うが。

追記2:「大日本人」に関してはハードルとか関係なく面白くなかったと思ってますけどね。これについては「浜田の不在」と「松本のブレイン達の思考停止」らへんが原因かと思ってます。

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【映画】サマーウォーズ

映画サマーウォーズを見てきたのでそのレビューをいたします。

雑感

・谷村美月の凄さを再度実感できた

エンドロールが流れるまで、もしかして、と思いながら聞いていたが彼女の声の演技は群を抜いている。女性であれほど"強い声"を出せる人は中々いないはず。

3年後にはポスト宮崎あおいとして映画界の若手女優を引っ張る存在になっていてほしいと思う。

・アニメ表現の到達点を見た

エヴァの時も思ったがアニメというのはこんなことまで表現できるようになったか、と思わされた。あれを作ったクリエイターの方々には羨望を覚えるばかりです。

・人間の結びつきの大切さ

おばああちゃんのキャラはとてもよかったし、最後のヒロインの勝負での"人間の力"には鳥肌立ちました。

・それ以外はすべて批判です

これ以降、批判だけになるのでサマーウォーズを面白いと思った方はご遠慮ください。

あらすじ

数学オリンピックの日本代表になり損ねてしまった高校生の主人公は、学校の先輩であるヒロインの少女に頼まめれ「彼氏のフリをして」、彼女の田舎に付き添うことになる。彼女の実家は地方の名家で、厳格なおばあちゃんや親族一同が集まっている。

そしてもうひとつ、この映画の世界には"OZ"と呼ばれる仮想世界が作成されていて、「大統領ののアカウントを盗めば核兵器さえも打てる」ほど実生活に深くむすびついている。

簡単に言うと以前話題になった「セカンドライフ」の超発展版といったものである。

田舎に向かった日の夜、彼の携帯に暗号文が送られてくるのだが、彼はそれを一晩でとき、謎の送信者に返信をする。

その結果、OZの管理システムはクラッキング(≒ハッキング)されてしまい、謎の送信者によって数億人のアカウントが盗まれ、世界は大混乱に陥ってしまう。

謎の送信者は、実はヒロインの叔父が作成したA.Iである。叔父は一族に対して反抗的な態度をとり、おばあちゃんを激昂させた上、A.Iが引き起こした大混乱にも無責任な態度をとる。

しかし、大混乱の影響でおばあちゃんはなくなってしまう。

一方A.Iは暴走を続け、宇宙から世界各地の各施設のいずれかにむけて、無人探査機っぽいのを墜落させようとする。

主人公とヒロインやOZの世界における格闘王のようになっている一族の少年、そしてその他の一族は力をあわせてA.Iを阻止しようとし、何とか核施設への墜落は回避する。しかし、最後に墜落の標的として残ったのは、まさに彼らがいる家であった。

主人公はその頭脳を使って、最後の暗号を解読して墜落を避けようとする。

一観覧者として

・人物描写

A.Iとの戦闘は、格闘王の少年、ヒロイン、主人公という順で行われる。

それぞれにスポットライトがあたり、見事A.Iに勝利していくのだが2時間弱の映画で3人もスポットライトあててるせいで、それぞれの背景が深掘りされてなく、それぞれの戦闘も勝利も非常に淡白になっている。結果、ただただアニメーションすごいなぁ、ってだけの感想になる。

あと、大事なとこで邪魔したりする警官の兄ちゃん。あの人をコミカルに書くつもりならもう少し笑えるシーンをいれてほしかった。あんな大事なシーンであんな事やらかしたときに、笑っていいのかよくわからなかったよ。

・前フリ

何気ない会話の中で、「ん?これ前フリか?」とか「後から何かに関連するんだろうな」っていうシーンや会話があるけど、結局何の前フリにもなってない。

例えば

主人公とヒロインの電車の中での会話。数学に強いことはわかってるし、しかもそれが最後の勝利に結びつくんだから、あの無駄な会話の中に前フリいれればいいのに。

終始一族の少年の一人が甲子園で、投手として戦っているシーンが流れてみんなで応援してるんだけど・・・何の絡みもないじゃん。本当にあれ、なんだったの?あれだけ時間とってるのに・・。

おれが何かを見落としてるんじゃないか?って心配になるくらい無駄な部分です。

ほんとに、なんなのあれ?時間稼ぎ?

・人の死の使い方

話の途中でおばあちゃんがなくなり、それを知ったA.I開発者の叔父が戻ってきて主人公に加勢する。

おばあちゃんの死によって、一族は「弔い合戦だ」といってA.I立ち向かうし、主人公は戦う決心をするんだけど、おばあちゃんの死に一番関連があるのは叔父のはず。

その叔父は、おばあちゃんが死んだことをヒロインの電話で聞いてあっさり帰ってきて味方になるうえ、A.Iとの戦いには全く役に立ってない。

あの人、何のためにこの映画にでてきたの?

おばあちゃん、なんで殺してしまったの?

・大事なセリフ

CMでも流れてる最後の戦闘のクライマックスの「よろしくおねがいします!!」って叫んでエンターキー押すシーンは何なの?そのせりふ、前フリも全くないし、しかもシーンとあってないし。

宣伝の仕方が卑怯

映画やテレビでのサマーウォーズのCMを見て、仮想世界OZの話が大半であることを読み取れた人はおそらくいないんじゃないだろうか。

おそらく、「田舎」「青春」「恋」「夏」らへんのフレーズから来る感動を期待している人は多いのではないだろうか。CMもそういう作り方をしている。

この映画の製作委員会に(セカンドライフをめちゃくちゃ推してた)日テレが絡んでいることから邪推するに、この映画の製作開始のころは、「2009年にはセカンドライフのブームが最高潮だろうな」という期待があったんじゃないだろうか。

そしてそのブームと合わせた形で"仮想世界と現実世界の結びつき"といった切り口で大宣伝をするつもりだったのでは?

ご存知のとおりセカンドライフは全く流行らず、今更その切り口を押しても誰も惹かれない。

なので、上記のような"日本の夏"的フレーズを匂わせて客をよびこもうとした。

まー客が入らなきゃ困るのはわかるし、宣伝マンとしては正しいと思うけどさ、客を騙しちゃだめだって。間違えて見に来ちゃったオシャレなカップルとか家族づれとか、ポカーンしちゃってたよ。

宣伝の仕方

宣伝で流れてる場面、あのCMを見た人が想像するものと全く違う流れの中のものばっか。

ほんっとがっかりするわ。

仕事柄思うこと

OZは世界最高のセキュリティを誇り、2000強の文字数の暗号によってセキュリティが守られているらしい。

どれだけ笑わせてくれるんだろう。2000強ということは2kって事ですよね・・?仕事柄暗号化技術に触れることは多々あるのだが、2Kで守られてるセキュリティってどんだけ脆弱なんだよ。。

でもそれくらいじゃないと、主人公が一晩で暗号を解けるはずもないので、映画の設定としては2000強というのは仕方ないものなんでしょうな。

しかし、2kで守られているセキュリティである以上、"世界最高のセキュリティ"などありえない。でも世界最高のセキュリティじゃなければ"OZ"は成立しないだろうし、主人公が暗号を解くシーンも盛り上がらない。

つまり設定が破綻してるってこと。

仕事柄思うこと②

(これは映画の批判だけではないけど)"OZ"内で行われる戦闘シーンや迫力のシーンをセカンドライフのような仮想世界であると考えたとき、OZの開発者はあのような現実世界と変わらぬ自由度を持った動きができるようプログラミングしとかなきゃいけないんだけど・・・絶対無理だもん。

"インターネッツって何でもできるんでしょう?"といわれてるような、何とも言えぬ不快感ばかりが募りました。

たぶん小学生なら、"インターネッツすげー!!"と興奮できるんだろうけど、仕事柄まったく現実味がなくてのれませんでした。

セカイ系について何本か記事を書いた身として

もう"セカイ系かどうか"みたいな議論は我ながらクドいと思うのでどうでもいいのだけど、この映画も"主人公が世界の危機と戦う"というフレームはセカイ系と同じだ。

で、世界の危機をもたらすのが人が作ったA.Iだという点や、主人公の立ち向かい方が「数学の能力で暗号を解く」というものという点で、"現実に結び付けようとしたセカイ系"の一種と捉らえられる。

でもさ、やっぱり"一個人の力で世界の危機と戦う"っていうのは無理な設定なんだって。だからセカイ系はそういうとこ全部すっ飛ばしてかくんじゃん。

主人公が数学の超天才で、だから暗号が解けた、っていうならまだわかるけど、日本代表なれなかったって言ってる時点でまだ上がいるって事でしょ?

しかも映画の途中で「謎の送信者に暗号を解いて送信してしまった人間は世界に55人いる」とか言っちゃってるし(しかも主人公は最後の一文字をまちがえてしまったので、正確には解いてすらいない)。

もう設定めちゃくちゃじゃん。もう一回最初から会議しなおしてこいよ。

提案だけど、"主人公は数学・暗号解きの超天才だけど、大事なとこでポカしちゃう"ってすればよかったんじゃないの?そうすれば日本代表になれなかったのも、一文字間違えちゃったのも、最終的に世界の命運が彼に託されることにも筋が通るじゃん。

しかもおばあちゃんとの最後の会話とその死によって、ポカしちゃう性格が直ってクライマックスの戦いに挑むって言う流れもできるじゃん。

結び

以上、様々な視点で批判しました。

この映画を楽しんでるのは一体どの層なんでしょうか。

唯一、アニメーターを志す人たちは楽しめるかもしれません。

僕もこの映画のアニメーションにかかわった方だけには「すごい作品でした」って笑顔で言えそうです。

ストーリーは結構王道で感動しないこともなかったですが。。。

・・・これ書いた後「サマーウォーズ レビュー」で検索したら概ね「良かった」って意見でした。うそん。おれがひねくれてるのか・・・。

たぶん、設定の適当さが目に付いて仕方なかったからだろーなー。。

アニメを見る目が足りてないのかしら・・・。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を見てきた。

ひょんな事からオールナイトでヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を見てきた。

我ながらこういうややオタっぽい文化は比較的好きな方なのに、なぜかこれまでエヴァを見てなかった。
どんな作品でも出会うタイミングってとても重要だと思っていて、これまでエヴァを気にしながらもみてなかったのは、たぶんまだ見るべきタイミングじゃないに違いないという思い込みもありました。高校のとき漫画をチラっと読んでつまんなかったから1巻だけ読んで辞めたっていうのもあるけど。

さてさて、今回見た映画は今までアニメとか映画とかでやったやつのパラレルワールド的な扱いらしい。それらを見てないからなんとも言えないけど、ずいぶんと間口は広い気がした。
wikiとかで軽く今までのエヴァのことを調べたところ、この映画では主人公が戦う理由とかメインキャラクターたちの性格とかが一般人にも受け入れやすいように軽く修正されてるのかな?

映画を見ながら感じたのは小学生の頃の憧れ、中学生の頃の妄想を見事に形にしてくれている、ということ。セカイを守るために機械に乗って戦う、というシチュエーション。親に冷たくされてるだとかトラウマがあるだとかの中2病的境遇。きっと高校の頃にはまってたらおれももう一回中2病発症していたに違いない。

そして何より、心の中の童貞を失っていない男たちには堪らないつくりになってるな、と。年上の女の家に同居して、かつ同い年の女の子二人が自分のために努力するなんて童貞にとってはなんとたまらないシチュエーションでしょう!
別に馬鹿にしているんじゃなくて、どれだけ付き合ったり突きあっt・・・してもガストで隣に座ってる女性の胸がやけにデカいだけで小一時間盛り上がれるような、心に童貞を失っていない人のことが僕は好きだし、そういう人たちじゃなければ楽しめないコンテンツが世にはあふれていると思う。


それにしてもエヴァはイロモノどころか王道的作品だったなぁ。最初は主人公を嫌っていたキャラが人とのふれあいを通じて素直になるのに、それと同時に悲しい展開に突入するとか、(設定よくわかんないけど)充電みたいなのをはずしたら5分しか動けないはずのエヴァが乗り手の心の開放に合わせて、強化されて動き出すだとか。



ちょっと別の話だけどエヴァに影響受けた作品群を指してポストエヴァンゲリオンだとかセカイ系と呼ぶ。
wikiでの説明では以下のとおり。

セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などの抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、代表作として新海誠のアニメ「ほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる。

「世界の危機」とは地球規模あるいは宇宙規模の最終戦争や、UFOによる地球侵略戦争などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。
つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。



おれ自身、高校生のころ説明にある「最終兵器彼女」に死ぬほどはまって病みきったことがあるし未だに2度と読みたくない作品だ。たぶん今読んだらどうってことない作品だし、多くの人にとってもクソみたいな話なんだけど、作品と自分がやけにリンクしてしまう"今読んだらいけない"時期に読んでしまったせいでたぶん一生忘れられない作品になってしまった。この作品もそのうち"今ならもう一回読み返すべき"時が来ると思っていて単行本だけ買って本棚に眠ってる。



また話がそれた。
何かの物語を作るとき作品のテーマを伝えるための手段として障害をおく。恋愛作品であれば恋愛の障害となる事で、軽いものだと家柄・親の反対・距離とかだし重いものだと身体障害・血縁・過去の怨恨とかになると思う。連ドラとか映画でもこの恋愛における障害ネタが限界に来てるよね。
そういう観点から見たとき青年を扱う物語として"世界の危機"をその障害として置くのも何と言うか「行くとこまで行ってしまったな」感がある。これ以上の障害として次は何がくるんだろう、とそんなことを考えております。

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