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2010年4月

週末のフール/伊坂幸太郎

8年後に隕石の衝突によって人類が滅びる。

―その事実を知った人々はは大混乱に陥った。

ありもしない「安全な場所」に避難しようと足掻き、食料のために略奪をし、人を殺し、恐怖が世界を支配した。

その発表から5年後、終わりの時まであと3年という状況で、混乱は一時的に収まり街は小康状態を保っている。

そんな世界を舞台にとあるマンションの住人の物語を描いた連作小説。

恐怖と安定が危ういバランスで保たれている世界での、娘と不仲な父親や、妻が妊娠した優柔不断な夫などのありふれた日常生活が描かれている。

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伊坂幸太郎作品にしては珍しくミステリではなく、「生きる」事を大きなテーマとした人間物語です。

僕はこの作品を残念な秀作だと感じました。

その最大の原因は、物語の中で世界が終わる事とそれぞれの物語に必然性が無いことです。

例えば表題作、「終末のフール」では親子の諍いとその和解が描かれますが、彼らは世界の終わりがあろうとなかろうと同じようにいつかは和解したはずです。

これはどの物語にも言えることで、世界の終わりという大上段なテーマは「人はいつか死ぬ」事をわかりやすく強調する役割にしかなっていません。

そのつもりで書いているのでしょうけど、せっかくの設定がもったいないと感じます。

世界の終わりというテーマはよくあるものですが、それを3年後に控えた安定期の物語という設定はとても面白く感じていたのに、それを設定無しでも十分描ける小さな物語に利用してしまったことがとてももったいなく感じます。

とはいえ、少し間抜けなのに理知的な会話やサクサクっと伏線回収という伊坂幸太郎らしさは健在で、それなりに楽しみながら読み進めることが出来ました。なので「残念な秀作」です。

個人的には「演劇のオール」の題材で1冊書いた方が面白そうだと感じました。

終末のフール

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高校球児ザワさん/三島衛里子

この漫画がスゴイ6位にランキングされた作品。このブログではあらすじ⇒感想という形で本を紹介するようにしているんだけど、この漫画に限ってはあらすじはなしです。

タイトルから解る通り高校の野球部に所属している女子生徒・ザワさんの物語ですが、そこから連想されるようなお話ではありません。

公式試合出場を目指しているザワさんとそれを応援する部の仲間が出てきて見事出場をはたす、なんてことはありません。

部活内の複雑な問題だとか、高校生のひたむきさだとかそういうものも描いていません。

では何なのかと言うと「普通の高校野球部に一人女子生徒が入っていたらどんな感じか」ということをひどく現実的に描いています。

筋肉自慢をしている男子に自分も自慢したくなっちゃってスパッツのまま筋肉見せにくるザワさんだとか、それを見てちょっと照れつつ困る男子生徒だとか。

練習中、先輩にもらったアドバイスのおかげで良い玉が投げられてちょっとうれしそうなザワさんの顔だとか。

あるいは小学生目線で、毎朝同じ駅から電車に乗ってるザワさんの制服が冬服から夏服に変わったことに気付くだけの話もある。

一体そんなものの何が楽しいのか、という話だけど、実際楽しくはない。

ただ、ザワさんが顔あらってるだけのシーンに2ページ4コマをまるごと使ってたり、セリフなしで男子生徒の目線の変化だけを描いたり、繊細すぎる描写が自分をこの世界に連れて行ってくれる感覚がある。

その結果ほとんど心情描写がされないザワさんの自然すぎる姿を勝手にのぞき見てるような気分になる。好きなのだけれど照れて話しかけることが出来ない女の子の日常をストーカーしてるみたいだ。

当たり前の話だけど、普通の漫画ならキャラクター達は必殺技を出すときには技名を言って、アップで描かれ集中線が集まるのだけど、この漫画にはそういうものが一切ない。というか漫画的表現自体が完全に排除されていて、片思いしている相手の写真集を読んでるような気すらしてしまう。

だから普通の漫画を期待してこの本を読んだらがっかりすること請け合いだし、じゃあ誰がこれを読むのか、と言われると難しい。

少なくとも、表紙の絵柄と「高校野球部に女性部員がいたら」というシチュエーションに自分の変態心をくすぐられるような気がする人はぜひ読んでほしい。

高校球児 ザワさん 1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

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武士道シックスティーン/誉田哲也

北乃きいと成海璃子ダブル主演での映画が今春公開される同名映画の原作。

装丁のかわいさやタイトルか滲み出るいかにも青春っぽい雰囲気の通り、剣道を題材にして二人の少女の出会い、そして成長が描かれる。

宮本武蔵の「五輪の書」を愛読し、兵法家として強くなる事を目指す香織。彼女は時代錯誤と思われるほど剣の道を究めることに傾倒しストイックに己を磨く。

中学の全国大会で準優勝したほどの実力者である香織が肩慣らし程度に参加した市大会で突如正体不明の強敵が現れ、香織は負けてしまう。

不気味な強さを持ったその相手と再戦し打ち倒すために、香織は剣道名門校への進学を決める。

一方、市大会でとても強いと噂の選手をなぜか倒してしまった早苗は剣道名門校の付属中学を卒業し高校に入学した。

そこで早苗は、剣道は滅法強いのに時代錯誤も甚だしい程にストイックな香織と出会う。

やがて香織は、早苗があの謎の強敵であることを確信するのだが、あの市大会での強さを微塵も感じさせない早苗に納得がいかない。何より早苗自身に、強さの憧れが無く香織を打ち倒そうとする気迫が無い事が許せない。香織はあらゆる手段で早苗を挑発して本気にさせようとするのだが、二人の間にはあまりにも熱量の差があった。早苗にとって剣道とは自分との戦いであり、勝敗に関わらず以前の自分よりも今の自分が優れていること、成長出来たことを実感することが最も重要なのであった。

やがて香織はその実力が認められてチームの団体戦メンバーとして大会に臨み次々と勝利を挙げていく。しかし、香織にとってはチームの勝敗などよりも自分がどれくらい勝ったか、どれくらい強いかということだけが意味のあることであり、チームメートでさえもいかに打ち倒すかという事だけが気になる存在であった。

そんな香織の姿勢はチーム内の反目を生み、大会中の怪我と合わさって香織は部活への参加を禁じられてしまう。

そんな時、とある事がきっかけとなり香織は何故自分が強くなろうとしているのか、強くなってどうするのかという疑問にぶつかってしまう。迷いを断ち切れない香織は復帰した部活でもふがいない結果を出してしまう。全ての自信をなくしてしまった香織は部活を辞めることを決める。

そんな香織に早苗が条件を出す。市大会――二人が出会ったあの大会で、もう一度勝負しよう、と。

そして早苗が勝ったら部活に戻って来る事を条件とした。

それは、己の成長を中心に据える早苗にとって初めての「どうしても他人に勝ちたい試合」であった。

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本書は剣道を中心に2人の成長を描いていますが剣道未経験者でも全く問題なく読み進めることが出来ると思います。

物語は主人公2人が交互に一人称で描かれ、難解な表現や謎などもなく文章も素直で読みやすくなっています。

香織が部活内で浮いてしまう所など重くなりがちな部分もありますが、文体が軽やかなので終始さわやかな気分で読み進めることが出来るはずです。

また、全3巻ではありますが一冊ごとに話は完結しているため、とりあえずこの巻を読んでみるということも可能で高校生・大学生や、これから小説を読み始めるという人にはよいのではないでしょうか。

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オーデュボンの祈り/伊坂幸太郎

システムエンジニアを退職した伊藤はコンビニ強盗に失敗してしまった。伊藤を捕まえたのはかつての級友であり、異常な程に残虐な性格をもった城山であった。城山から逃走した伊藤が突如"荻島"という離島に連れてこられてしまう。

荻島は300年の間外部との接触がなく孤立した島であった。

島には、しゃべるカカシ・島民から殺人を許容された"桜"という男・ウソしかつかない画家などおかしな人物ばかりがいる。しゃべるカカシは崇拝とも言えるほどの信頼を島民から受けていて、例えば島で犯罪が起きれば即座に犯人とその居場所を島民に教えるなど特別な能力があった。

訳もわからず島に連れてこられた伊藤に対してカカシは島民に対しては決して言わない"未来の事"を語りだす。

「自転車をこぎなさい」

一方伊藤に島の紹介をしていた日比野は島の言い伝えを語りだす。

「この島にはたった一つだけ欠けているものがある。そして外部から来た人間が"それ"をもたらすだろう」

全てが狂っている島に伊藤が訪れた翌日、カカシが何者かによって殺害されてしまった。

いったい誰がカカシを殺したのか。

カカシの予言は何を意味するのか。

この島に欠けているものとは何なのか。

なぜ桜は殺人を許容されているのか。

伊藤が来る3か月前にこの島を訪れた曽根という男、鳥とカカシだけが友人であるという男、太ってしまって一か所から動けなくなってしまった女性、地面に耳を押し当てている少女―。

謎が次々と現れる中、伊藤はカカシを殺した犯人を探し始める。

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伊坂幸太郎のデビュー作です。

伊坂幸太郎といえば、軽妙な文章と鮮やかな伏線回収ですが、本作もそれに洩れず多くの謎が次々と現れます。

ミステリというのは、子供がおもちゃ箱からレゴブロックを取り出して何かを作ろうとすることに似ています。

伊坂幸太郎は「そんなブロックとりだしてどうするの?あ、そんなのまで取り出して、ちゃんと作れるの?」とこっちが心配になるくらいブロックを取り出して、そこから見事に何かを作り上げる名手です。

しかし、近年の作品と比べてこれぞデビュー作と言った感じで、このオーデュボンの祈りは、謎は次々にばら撒かれるけれども片づけ方は随分と雑です。

おもちゃ箱ごとひっくり返してレゴブロックを一応は積み上げて何かを作ってはいますが、使い切れなかったブロックをこっそりおもちゃ箱に返していたり、余ったブロックを適当に積み重ねて「塔」と言い出したり、といった言った感じでしょうか。

一番大きなテーマといえる「この島に欠けているもの」は物語的には不満足ですが、小説という事を考えると予想外からの答えという意味では面白かったです。

ともかくこの作品はは「伊坂幸太郎という才能」が一切操縦されないままに才能の先走るがままに飛び回っているようなものです。

「伊坂幸太郎大好き」という方が、その才能の暴走を楽しむにはとても良い作品です。一方で伊坂幸太郎の一冊目としてはあまりオススメできません。

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ヘヴン/川上未映子

斜視が理由でいじめられている"僕"と、同じようにいじめられている少女・コジマ、そして利己的ないじっこの関係を基に"善と悪"というテーマを扱った物語。

ある日"僕"のもとに送り主不明の手紙が届いた。何度か手紙のやり取りを続ける内に、やがて"僕"と送り主は会う事になる。

その送り主は、薄汚い恰好をしているという理由でいじめられている同級生の女の子・コジマであった。

同じ境遇に在る者同士の二人は徐々に心を通わせていき、"僕"は少しづつコジマの事を知り、興味を持っていく。

例えばコジマが薄汚い恰好をしているのは、父親との思い出の「しるし」としてあえてしているのであった。

そしてコジマは"僕"の事を「しるし」を持つことによって理不尽な暴力に晒されている「仲間」だと言う。

"僕"と出会ったことでコジマの中に"強さ"強さが生まれていき、いじめられること、やりかえさないこと、今生きていること、そんな全てに意味があるのだと語るようになる。いじめをしている「彼ら」には、いじめることで生まれる"僕ら"の思いなんて理解できない。それをわかっている"僕ら"が、弱くて、でも本当は一番強いんだ、と。その"強さ"こそが"正義"なのだ、と。

全てに意味を見つけて強くなるコジマを見ていて、なんだか少し遠くに行ったような気がする"僕"。

一方、いじめっこグループの一人である百瀬は別の"強さ"を"僕"に語ります。

"僕"とコジマをいじめている百瀬たちの心は痛まないのか、いじめることに何の意味があるんだ。そう訴える僕に百瀬は言うのです。

意味なんて元々ない。"正義"なんかでもない。いじめをしていてもても自分は痛くもかゆくもない。大して面白くもない。ただ、いじめてるだけだ。もちろん、いじめることに意味などない、と。

ところがある日、「しるし」であるはずの斜視が手術によって治るということを"僕"は知ってしまう。

コジマの言う強さも百瀬の言う"強さ"も"正義"も"意味"もよくわからない。けれど、斜視を直せばいじめから逃げられるのではないか。

「しるし」を失っていじめから逃げ出せるかもしれない。でも、「しるし」を失ったとき僕とコジマの関係はどうなるのだろうか―。

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本書が面白いかどうかと問われると、ぜんぜん他人に勧められるものではありません。

グロすぎるいじめの描写や、僕とコジマの少し湿っぽい心の交流など決して娯楽作品として喜んで読むようなものではないと思います。

そして、登場する全ての人物が年齢よりもはるか論理的なのです。彼らはあくまでも作者の意図を極端切り分けた人格でしかなく、ある意味では川上未映子さんの一人芝居のようなものです。

僕は川上未映子さんの言語感覚がとても好きなのですが本書でもその片鱗を垣間見ることが出来ました。

いじめられることの意味を自分の言葉で話し続けるコジマのちょっと回りくどい言い回し、そしてコジマにとって大事なこと―なぜ大事なのか"僕"にはわからないけど―を2回繰り返す癖、「うれぱみん」だとか「~なのです」といったちょっと演技がかったような少女独特の浮遊している言語感覚。

コジマの「髪が固くて多い」だとか「鼻の下に産毛が生えていて常に少し黒い」というような決して美人ではないという描写・設定。――もしこの物語を男が描いた時、いじめられている僕を救う光であるコジマは、外見が優れてるという設定になるに違いありません。そしてコジマではなく小島であるはずです。

また、(これは計算してやっているのか微妙ですが)百瀬とのやり取りの中にある、小説に関するやりとり。紙の向こうで"僕"がうけている屈辱的ないじめが紙のこっち側から眺めているだけの僕にも届くような、反論したくても出来ない悔しさを共有させているかのようです。

そしてクライマックスの最中、"僕"の中で渦巻くコジマと百瀬が言う"強さ"という言葉の意味。

でもやはり"僕"の心情が強まる部分やコジマが熱く語るシーンでは川上未映子さんの持つ言葉のリズムが溢れていて、鍵カッコにはさまれて文字が詰まりすぎているようなページでも波にのせられるように自分も揺れながら読み進めることが出来ます。

結論から言うと本書は誰にも薦められません。川上さんの大ファンの方であれば過去の作品に比べてその独特な言語能力が影を潜めているようにも思えるだろうし、ファンじゃない方にとってはリアリティのないいじめと哲学遊びを見せられているだけの物語だからです。

個人的には、稀代の日本語使いである作者がその爪を短く切って研いでいる途中であって、その結果爪は折れてしまうのか、あるいはより頑強で鋭く美しいものに変貌するのか、と今後の作品を楽しみさせられるだけの価値はありました。

ヘヴン

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屋上ミサイル/山下貴光

あらすじ----------------------------------------------------------------------------------------------------------

「屋上の平和を守ろう」

4人の高校生が屋上の平和を守るため、次々と持ち込まれる暴力やうらみつらみを解決する物語。

思いを寄せる女子に思いを告げるために1年間声を出さない事を誓い、屋上から彼女を観察している沢木、自分の過ちを許せずにいる平原、学校一偉そうな不良・国重、課題のために屋上を訪れたデザイン課の辻尾アカネの高校生4人が、たまたま出会った屋上で出会い、屋上部として活動を始める。

一方、世界ではアメリカの大統領テロリストに拉致されて、数日以内にミサイルが日本に飛んでくる可能性があるという危機が発生していた。

ある日、国重は死体が写った写真、沢木は拳銃というそれぞれ屋上の平和を脅かす遺物を拾ってきてしまう。平和を守るため、というよりも興味にかられて、屋上部の面々は写真に写っているらしき人物の正体を探り始める。さらには平原の後悔の念を晴らすために神様に会いに行くわ、沢木は突然屋上に現れた思い人にビンタされるわ、国重は殺し屋に追われるし、アカネは国重の秘密の仕事を知ってしまうったかと思えば弟が何者かによってけがを負わされたりと、穏やかな平和を保っていた屋上に次々と問題が降りかかる。

そして、ミサイル発射の前日すべての問題が一本に繋がっていく。

レビュー----------------------------------------------------------------------------------------------------------

このミス」大賞を受賞した作品。

上で書いたようなあらすじが綺麗に繋がって行くのであれば、興味をそそられる方も多いのではないだろうか。

が、残念ながら違う。例えば、世界の危機は結局のところ物語と何の関連性もない。

さらには、次々と現れる問題達の発生も解決も、国重の暴力か作者のきまぐれで行われるのだ。

ミステリ的な謎解きも全くないのでご都合主義と言われても仕方が無い。

これほどまでにご都合主義で話が転がるならば、『夜は短し歩けよ乙女』のように、ご都合主義である事すらネタにしてしまえば良いのだがその潔さもない。

だが、少し視点を変えるとこれは中々秀作と言えるかもしれない。

この作品はいわばRPGなのだ。

RPGで重要な事は、能力を持った仲間を増やし、ラスボスに会うためのアイテムを集める事だ。

アイテムは他人の家の中のツボにあるかもしれないし、洞窟の奥に隠してあるかもしれない。そこに必然性はなく、多少の危険と成長が伴えば良い。何をやればよいのかは王様が教えてくれるし、ヒントは村人がくれる。

この物語でも、イベントは作者が起こしてくれるし、アイテムも程良いとこに置いてくれている。

そんなRPGの最後に必要な事は、これまで集めてきた仲間とアイテムを全て駆使してラスボスを倒すことだ。使わないアイテムがあってはならないし、仲間の能力もフルに使われることが望ましい。むしろ、ラスボスを一発で倒すような――ミステリの謎解きのような――裏技はいらないのだ。

そう考えればこの物語のラストはかなり秀逸と言える。

ではなぜそんな作業ゲーのような小説が「ミステリ」と名のつく賞を受賞したのかは、さっぱりわからないが。

もうひとつ、この小説のレビューを書くにあたって伊坂幸太郎に触れずにはいられない。受賞の際の選評ですら全ての審査員が伊坂幸太郎の影響に触れているくらいだ。

まずは文体からして、会話の中にさらっと混ざりこんでいるうまい言葉、登場人物たちの素軽いセリフ回しや、バラバラに散らかった伏線の回収という形式など、リスペクトだとかインスパイアだとかで済まされるレベルじゃない程の類似性がある。

さらには大統領拉致によって生まれている『終末のフール』と同様の"世界の終わり。ただし執行猶予付き。"という設定もそうだし、途中で登場する殺し屋の口調や佇まいまでも『死神の精度』などとダブっている。

この点だけで劣化版伊坂幸太郎という評価になってしまうのもうなずける。

僕も、設定や伏線回収については現状では劣化版伊坂でしかないと思う。

ただ、登場人物の造詣が伊坂とはやや異なる。伊坂作品に登場する人物たちのある種スマートな(悪く言えば世捨て人のような)語り口とちがって、この作者の描く高校生にはどこか青臭さやひたむきさというものが漂っている。

そのせいで、屋上部の中で唯一スマートさを身にまとっていそうな平原ですら、どこかひたむきさが抜けきらずにキャラクタがぶれてしまっているのだ。そして、スマートさの塊のような殺し屋は伊坂の作品からゲスト出演しているかのように浮いている。

だからこの作者は青臭さ、泥臭さを隠さずに青春小説に特化して描けば、劣化版伊坂ではない個性ある作品を描ける気がしている。特に主人公辻尾の国重への心情はいかにも「男が求める女の子らしさ」を見事に描けているし、ラストの辻尾の描写はすばらしい。正直、不満げに読み終えそうだった僕もちょっとにやけてしまった。

作者自体も青臭さ全開で、物語の随所に作者の青臭い政治観や世界観、思想が語られている。何しろ高校生や地の文が突然講釈を垂れだすものだから、文章のリズムが狂う。あの辺を全部編集で落とせばページ半分で済んだと思う。大統領の拉致も不要になるし。

とはいえ、そもそも劣化版伊坂といっても、じゃあ「伊坂っぽい」ものですら書ける物書きがどれくらいいるだろうか。少なくとも、伊坂幸太郎に影響を受けたとわかる水準のものを描けているだけでも、相当の筆力がある事が伺えるし、今後の作品を読んでみたいと思える作品だった。

蛇足だがどうしてもいくつかつっこみたい。

・沢木が拳銃を拾った理由をもう少し詰められないものか。せっかく、あの日にアカネの目撃、国重が写真を拾った理由、殺し屋に追われる理由が揃っているんだから、そこだけ詰めれば少なくとも導入部はご都合主義じゃなくなったのに。

・上にも書いたけど大統領の拉致は完全に要らない。事件自体が屋上部とからまないのは仕方が無いとしても、世界の終わりという設定が全く絡まないのはいかがなものか。唯一、物語のヒキとしては役立っているし、僕もこれにひかれた部分はある。でもこういう事やってると、もう2度とこの作者の作品は読みません、て読者は思うよ。

・散らかした事件を中途半端に放置したままだから、明らかに中だるみしている。中途半端なのはいいけど、伊坂幸太郎だけじゃなく、全てのミステリで行われている、事件の整理を登場人物に語らせてないからです。一通り問題がでそろったところで一度整理をするべき。

・国重のキャラクタが最後まで掴めず。正義感が強くて、妙な事で照れ出したりするあたり無骨な不良なのかと思えば、なんだかんだで暴力で解決しちゃうし人として不愉快な方向で常識もない。それを見ても何の非難もしない辻尾もおかしいし、結局ラストで国重が辻尾に言わんとしている事に至る彼の心情はさぱりわからない。

というわけで全くおススメ出来ない作品でした。一方で僕はこの作者の今後の作品は読んでみたいと思っています。

屋上ミサイル (このミス大賞受賞作)

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人生最高の○○はなんですか?

前に友達と飲んでいる時「人生最高の映画ってなに?」という話題になりました。
この質問に僕はとても困ってしまったのを覚えています。

この「人生最高の」というのは中々恐ろしい枕ことばですよね。その問いに対する回答にまるで自分自身の人生全てが背負わされるような気になる。ましてその場には、映画を愛し、たぶんきっと僕が知らないようなおフランスのマイナー映画みたいなのを大量にみてそうな、いわば映画リテラシーの高そうな人もいる。ここでうかつに日本のメジャーで低俗で有名で商業的な映画なんて口走ろうものなら、「程度の低い人間」だとおもわれてしまう!

・・・とはいっても会話の相手は友達なのでそんな身構える必要もないのですが、なんか多少はかっこつけたいなぁ、などと思って必死に【人生最高 映画】で脳味噌に検索かけてみたんですよ。

でね、結局検索最上位に来たのは「下妻物語」であって、そりゃあもう”日本のメジャーで低俗で有名で商業的な映画”なわけですよ。ここでの”低俗”というのは僕にとっては褒め言葉ですけどね。

そして言った瞬間の気恥ずかしさったらないし、周りはよくわからない海外映画の名前とか監督名とかいうしで、自分のほっぺたむぎゅーってして、首ぐりんぐりんぐるんて振って一回転させたかったですよ。でも言ってみておもったんだけど、下妻物語が人生最高の映画でいいじゃん。最高の2時間の過ごし方だったよ、実際。で、たぶん周りも思ってたと思うんですよ。下妻物語が人生最高の映画でいいじゃん、って。

僕は映画に関してはどこまで行っても”視聴者”であってエンターテインされる側なんですよ。だから、自分が楽しめたものが一番でいいんですよ。

逆に映画を使ってエンターテインする側の人、いずれしようとしてる人はそれじゃあ駄目なんですよね。自分が作る事を念頭に置くと、自分が作るものに影響を与えるものほど、プラスをくれるものほど、あるいは、方向転換させてしまうような強烈なものほどたぶん人生最高になるんですよ。

だからもし僕が映画監督を目指してたなら「一番楽しかったから下妻物語」じゃ駄目だけど、目指してないし、1500円で2時間楽しく過ごしたいだけだから「下妻物語」でいいんですよ。いいんですよ。大事な事だから2回言いました。いいんですよ。自分を信じ込ませたいから3回言いました。

さて、この「人生最高の○○」というのは中々面白い問いでその人の中身と言うか、成分と言うか、構成する重要素がわかるキーワードだと思います。

○○の中に色んな言葉を入れて質問すればたぶんその人の本質に触れる事が出来る気がするんですよね。音楽、小説、漫画、十分、一日、季節、人、恋、思い出、楽しかった事、つらかった事、悪事、涙・・。この質問さえあれば親友となら朝までガストでドリンクバー頼んで話しこめそうでしょ?

なんなら○○の中に適当なフレーズをいれてもいいかもしれない。右手、おかず、雨の日、ペットボトル、敗戦、勝利、テレビ番組、掃除、喧嘩、大便、遅刻、睡眠、ロシア、椎名林檎・・などなど。人生最高のロシアってなんですか。誰か教えてください。

中でも普遍性がありそうな音楽について書いてみたいと思います。

今この記事を読んでる人も自分に問いかけてみてください。

「あなたの人生最高の音楽は何ですか」

これ、すごく難しいですよね。単純に曲のメロディーの事なのか、詩も含むのか、あるいはそれを歌うミュージシャン自身への評価を含むのか。むしろ詩限定での人生最高もあるし、楽曲が人生最高ではなくても自分にとって人生最高のミュージシャンというのもいますし。そして何より、この問いにおいてむずかしいのって「いつの自分にとってなのか」という部分だと思います。

音楽って僕らの世代だと中学生くらいからほぼ毎日関わってるものなうえに次々と新しいものが耳に飛び込んでくるから、時が経てば人生最高もかわるんですよね。しかも人生最高と言えるほどの音楽は、ほとんどの場合、別の「人生最高の○○」と結びついてると思うんですよ。

人生最高の恋、別れ、夏、卒業、映画とか。

その思い出に優劣はつけられませんよね。なので、問いを変えて「人生最高の○○に関わる音楽はなんですか?」か「人生最高の○○(音楽に関する単語)」で行きましょう。もちろん、自分の思い出と繋がりが全くないのに好きな作品とかもあるし、思いついたお題で何個か出してみます。回答は凄く低俗だと思います。何しろ僕、音楽もエンターテインされる側ですから。

と、いって書き始めたらあまりにもメジャーな曲ばっかで恥ずかしくなったのであまり有名ではない曲だけをピックアップ!

人生最高の詩が好きな歌手

一青窈さん。この人の歌詞は常に説明足らずなんだけど、伝えたい事の大事な部分だけはしっかり残しているので、意味は伝わらないのに曲の向こう側にある物語はうっすら見えてて気持ちは伝わる、と感じる。きっと山ほど溢れる言葉から引き算を重ねて純度の高いものだけを残しているんだと思う。悪く言えば思わせぶりなんだけど、聴いてて事情も知らないのに切なくなってしまう。川上未映子さんと対極にいる人だと思う。有名な『ハナミズキ』の”君と好きな人が百年続きますように”っていう言葉も好きだけど特に好きなのはこの『影踏み』という歌と『かざぐるま』という歌。この曲の裏にある物語をすごく想像させられる。最初の『もらいなき』聴いた時はただのイロモノだと思ってたんだけど、アルバム聴いててものすごく好きになってしまいました。

影踏み

人生最高の卒業ソング

これはコブクロの『同じ窓から見てた空』。厳密には卒業ソングではないんだけど、同窓会をテーマにした曲で、卒業した後の人が卒業を思い出して共感できる歌だと思います。今や売れるっぽい曲しか書かなくなってしまった感があるコブクロだけど、この曲が入ってる『NAMELESS WORLD』というアルバムまでは、おおっと思うような詩が結構あって大好きでした。
この曲の中のワンフレーズ”男には色々あるんだ”なんて、そんな詩じゃうれないだろという。潔いわ。

同じ窓から見てた空

http://www.youtube.com/watch?v=Rc0kd7YPvrQ&feature=PlayList&p=3F90B989D4160D4C&playnext_from=PL&index=15

人生最高の感謝を伝える曲

SOPHIAの『Thank you』。ベストアルバムの中に新曲として入ってた歌です。メロディーもすごく好きなんだけど2番のサビの”僕らも大人になって 誰かの親にもなって やがて土なろう”という歌詞が染みる。この曲はたぶん卒業の歌でもあって感謝と決別が込められているんだけど、さようなら、っていうだけじゃなくてお互いの未来まで見ているっていう視点がとても新鮮な気がしました。説明になっているのか、これで。

thank you

人生最高のイントロ

MAROON5の『Sunday morning』イントロのピアノから"Sunday morning rain is falling"まで雰囲気が完璧すぎる曲です。僕はこの曲を2年間目ざましにしてました。イントロを聞くためだけに。

sunday morning

というわけで人生最高の音楽、というお題でちょっと書いてみました。人生最高の夏の歌っていうテーマで考えてたら7曲出てきてしまって即没になったりしましたが。

人生最高の○○ってたぶんいいブログネタになると思うんですよね。

さぁ、ブロガーの皆さんレッツトライ!テーマは『人生最高の朝青竜』で。

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宮台真司氏と金明秀氏がtwitter上でしていた外国人参政権に関するやりとりを読んでて在日が思ったこと

twitter上で宮台氏と金氏が議論しているのを友人に教えていただき色々と思うところがあったので書いておきます。

いくつかまとめがあるのでよろしければどうぞ。(発言の編集が恣意的なので出来れば本人たちのタイムラインを見ていただきたい。)

宮台真司氏による永住外国人参政権論
外国人参政権について宮台真司miyadai vs 金明秀han_org

今回僕が書く内容は主に宮台氏の発言から思った事なので宮台氏のブログにアップされていた氏の発言だけ読んでも大丈夫です。

(中略)・・・
つまり、特別永住外国人(在日の方々)を一般永住外国人(非在日)と区別して参政権を与えるべき合理的な理由があるかどうかだけ議論してます。ここを取りのがした議論は、僕を相手にした議論にはなりません。

この1点を議論するにはさして知識は必要ありません。1950年代後半から「在日=強制連行」図式が拡がり、これをベースに北朝鮮への「帰国運動」が自民党さえも巻き込むという文脈の中で、在日政策が固められていきます。しかし「在日=強制連行」図式は単なる虚偽でした。
(中略)
問題は(1)OECD加盟国ないし先進各国の、(2)マイノリティーにおいて、どうかです。ほぼすべての国で「インド系●●人」「中国系●●人」「ユダヤ系●●人」という在り方が自明です。つまり参政権を取得したいならば、インド人から「インド系●●人」になるのが普通です。
(中略)
ちなみに、「在日=強制連行」という虚偽図式を吹聴したのは、在日ではなく日本の左翼です。在日は「どうせ日本は悪いことやったんだから」という感じで、強制移動だったかどうかは別にして左翼の虚偽図式に乗っかりました。心情的にはこの政治的のっかりを理解しています。
(以下略)

原文を読めばわかりますが、宮台氏の論点の中心はあくまでも、一般永住者の参政権をめぐる問題です。
【原文はコチラ↓】
ツイッターをプログにまとめろという要求がツイートされましたので…

とはいえ、僕は特別永住者なので、特別永住者の立場から思う事だけを書かせていただきます。
正直言って僕も、大学時代にいくつかの本を読み、そしてネットに出回る情報を見て、いわゆる強制連行は「一般的に共通認識として思われているほどには無い」事はわかっています。僕自身も、(日本人である父方の祖母を除き)1世である祖父母3名が全員「一旗上げに来た」事を聞いていますし、周囲の在日の中にも「先祖が強制連行で日本に来た」などというのは聞いたことがありません。

同じように在日の中でも「強制連行神話」が偽物であることを知っている方は多くいるはずです。(この点、教育の成果なのか、若い在日ほどこの神話を信じていたりもするのですが。)では、若者よりも現実(一旗上げに来た事)を知っているはずの1世、2世達がなぜこの神話を使うのか。それこそこの宮台氏の指摘の通り、政治的意図だと思うのです。つまり「強制連行だった」ということにしたほうが、在日にとって都合がよいということです。

誤解を恐れずに言えば、僕は先祖たちのこの戦術を支持します。
「日本で生きていく」事を心に決めて、自分たちが生き抜くための権利を獲得するために出来ることはすべてやろうとする気持ちはわかるからです。
ましてや「強制連行」などと広めたものたちの中には(自虐史観にとり憑かれた一部の)日本人であり、日本のマスコミも含まれています。彼らがいなければこんな馬鹿げた戦術が通用するはずもない。

結果、宮台氏が指摘するように「一旗上げに来た」よりも「強制連行で来た」と言う方が権利の獲得が容易になると考えた在日側がそれに乗るという戦術をとったのでしょう。

「やはり在日は嘘つきだ」などと言いたい人は好きに言えばいいと思います。
遠く異国の地、理解されない心情と癒えない過去の傷、そして過酷な差別を抱えてそれでも生き抜こうとするマイノリティの根性なんて、マジョリティには理解できなくても仕方がないと思います。マイノリティはいつだって家族の命と、財産と、そして矜持を守るために”反抗”することこそが生命線なのです。抗う事が生きる事なのです。

とはいえ、その戦術が今になって誤りであった可能性が出てきてしまいました。
「偽造券だけど大丈夫」と改札口でもらった強制連行という特急券を持って権利獲得快速列車に飛び乗ったのに、車掌に「その券は偽造ですよ」と指摘されてしまったのです。そして何も知らずに同乗していた若い在日は、大人たちの”悪事”を知ってしまった。

明確に言っておきますが、事実ではないと知りながら神話に乗っかった事は紛れもない悪事です。
それでも僕は、先祖たちを責めようとは思えません。
この悪事は自分たちのためであると同時に日本(政府)を相手にした悪事であり、在日である僕の立場では「悪事と知りつつも支持する」ものであっても、日本人にとっては「悪事」でしかないことも理解できます。だから、宮台氏の言葉の中にこのエクスキューズがあった事に僕はとても救われました。

ちなみに、「在日=強制連行」という虚偽図式を吹聴したのは、在日ではなく日本の左翼です。在日は「どうせ日本は悪いことやったんだから」という感じで、強制移動だったかどうかは別にして左翼の虚偽図式に乗っかりました。心情的にはこの政治的のっかりを理解しています。

もちろん、宮台氏が言っているのは「心情的には理解するが、悪事は悪事」ということだと思います。日本人の立場にしてみればそれは当然だと思うのです。それでも尚、在日側の心情まで想像することができるところに、僕は救われました。
宮台氏と違い、こういうバランス感を持っていない方には僕の「悪事と知りつつも支持する」という心情など理解されようはずもありません。
ましてやネット上であれば「悪事を支持する在日」と大喜びでレッテル貼りをされかねないのです。
だからうかつに「強制連行はなかった」「在日が嘘にのっかった」などとは言えなかったのです。

このブログのように、自分が在日であることを明かし、在日の問題について語るブログをたくさんあります。そしてその多くが決まりきった終着点に行きつきます。つまり、「ものわかりのいい在日」。ブログ開始時は在日としての立場と自身の無知から日本に対して文句を言う。やがてコメント欄に叩きが増えていく。叩きと戦っているうちに「丁寧に教えてくれる日本人」も現れる。やがてブログ主は閲覧者が喜ぶような意見を書くようになり大団円。けれど僕にはそれはできない。「ものわかりのいい在日」なんて本当は存在しないからです。叩かれる事を嫌い、褒められる事を喜び、「在日としての意見」の「意見」が変わるのではなく「在日」という立場自体を変えてしまうからです。立場が変われば―つまり日本人の立場に立てば―閲覧者と同じ意見になるにきまってる。でも僕はこの先もずっと在日なので、読む人たちに取り入る様な事は書けない。在日という「違う立場」であるという前提で書きたいのです。

話がそれてしまいましたが、宮台氏がおっしゃるように、出自が「強制連行」であるか「出稼ぎ」であるかによって、在日の問題の帰趨は変わるはずです。だから、このタイミングで神話が崩壊する事もあるべき未来に正しく辿り着くための重要な歴史のひとつかもしれません。

それでも、神話が壊れたとしても、在日が今、現に日本にいて、そしてこの後も生きていくんだという事実は変わりません。これからあと50年は日本で生きていく僕にとって、そして若い在日にとって大事なことは、未来です。

宮台氏のツイートに乗っかって、金氏を貶め、馬鹿にし、「(宮台氏の)勝利!」などと喜んでいる人たちには圧倒的にこの視点が欠落しているのです。現実を見ず、未来に向けた建設性もなく、他人を貶めて優越感に浸る行為に「差別」以外の何という名前がつけられるのでしょうか。

宮台氏と金氏当人のツイートにはこの「現実と未来」を見据えている姿勢が表れています。それをわからずに差別し続けている人たちには、一度「現実と未来」の事を真剣に考えていただきたい。

過去の検証は重要です。悪事を反省する事も重要です。虚偽を見破る事も重要です。でもその先にはいつでも「現実と未来」を見据える視点が欲しい。現時点で相反している二つの立場の人間たちが、優一共有できるのは「互いにwin-winとなる未来」だけなはずです。

あー、読み返してみるとあぶねぇ記事だなぁ。ま、いっか。

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