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勉強の話

前回勉強の話を書いた後いろいろ検索してたら、だいぶ昔のだけどちょっと一言言いたくなるような記事たちを見つけた。先に書いておくが、僕はたぶん今むきになっている。

事の発端ははてな匿名ダイアリーのこのブログ(http://anond.hatelabo.jp/20081221200806

勉強が出来る=頭がいい

僕はそう思って生きてきた。

でも、そのことを否定する意見が多い。

何故だ?世の中には勉強が出来ない奴のほうが多いからか?

そいつらが勉強が出来なくても自分は頭がいいと仮定なしで信じたがっているのか?

本質的な頭の良さは勉強なんてものに関係ないと「勉強もできない」のに主張しているのか?

理由はよくわからないが、負け犬の遠吠えだろうな。

これ自体はかなり極論で、いわゆる"釣り針がでかすぎる"記事だと思う。これに対して書評ブログで有名な小飼弾という人が噛み付いた。("意見した"じゃなくて"噛み付いた"。)

それじゃあ、勉強が出来る人が何がいいのか。

頭じゃなくて、都合。

学校では教師にとって、会社では雇用主にとって。

そりゃそうだ。命令する方から見たら、自ら努めて強いる子の方が、かれこれ質問する子よりずっとありがたい。

ついでに、「勉強が出来る」が「頭がよい」ことでない説明も。

勉強って、ほとんど頭使わないよね。

人様に言われたことを、やればいいんだから。

あんなに頭使わなくていいのに、親は小遣いくれるたし、会社も給料くれた。

(中略)

正直、ここまで煽るような書き方をする理由がさっぱりわからない。

「勉強が出来る」が「頭がよい」ことでない

こんな事意見するまでもなく当たり前の事だと思うのだがそこまで煽る必要がどこにある?

小飼さんはよっぽど「勉強ができる」人を否定したいんだろうな、と思えてしまう。もっと言えばコンプレックスがあるように思う。

僕はこの人の事が前から気になっていて、そのうち書評ブログを読んで参考にしようかと思っていたのだが「頭が悪そう」なのでやめることにする。

正直、小飼さんの記事全文につっこみを入れることができるがとりあえず大前提の話を。

小飼さんは高校にいかずに大検をとって大学にいき、その後プログラマーとして有名になった人だ。

いわばアウトローから自分の腕一本で一流になった人で、尊敬に値する。が、それは小飼さんの稀有な才能と運のたまもので(その配分が何対何かは・・まあいいや。)万人に当てはまるものではないし、むしろ大多数の人間にとって自分の腕だけでのし上がることは困難だ。

経歴を見ればわかるのだが小飼さんは一般的なレールからは降りたけど「勉強ができる」人で「頭がいい」だ。それがここまでかみつくのは、上の匿名ダイアリーを書いた人に、与えられたレールに乗って「勉強ができる」優等生的な姿を勝手に見たのではないだろうか。中学で学校教育に疑問を感じて登校拒否していたという小飼さんにとって、この匿名ダイアリーの書き手のことが、かつてかれが疑問を感じた教室で命じられるままに勉強をしていた優等生たちとかぶってしまったのではないだろうか。

前回もちょっとだけ書いたけど、やっぱり今も社会は学歴も含めて人を判断するし、自分を売り込む手段として勉強をして学歴を上げることに意味はある。そのために勉強している人、「勉強ができる」人には暖かく「がんばれ。きっとその努力が実を結ぶよ」と声をかけてあげればいいだけのことだ。

小飼さんには「勉強ができる」人なんぞ誰かに強いられてレールの上で踊らされてるだけにしか見えないらしい。

でも自分がそういうわかりやすいレールに乗らずに成功したからといって、レールの上でがんばる人を否定する神経はおかしいと思う。心が狭すぎる。

この小飼さんの記事に対して東大博士課程卒業の女性がこんな記事を書く。

「勉強ができる」という蔑称-理系兼業主婦日記

(中略)

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?

かけっこが速い子=素朴で子供らしい子、勉強ができる子=小賢しくてかわいげのない子、という印象がまかりとおっているように思えてならない。

この印象論が大人に対して、「頭がいい・悪い」という言葉をもって当てはめられると、勉強以外が得意な人=頭のいい人、勉強が得意な人=頭の悪い人、という差別的言辞になるのではないか。

実際は、かけっこが速くたって小賢しい子はいるし、勉強ができたって素朴な子はいる。

大人だって同じことだ。

ただ世間智に長けているだけで「自分は勉強はできないけど頭はいい」と思っている人は、頭がいいと言えるのか。

実際には因果関係がないものに、因果関係を見出そうとする態度こそ、「頭が悪い」となじられてしかるべきではないか。

勉強ができる、できないにやたらと拘る人に問いたい。

子供のころは「子供らしさ」という基準で、大人になったら「頭のよさ」という基準で、他人の人格に優劣をつけなければ気が済まないのですか、と。

あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。

勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。

ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。

でも、どうしてもそういうことにしたがる大人が多いこと、そんな大人に影響を受けた子供が多いことに、多くの「勉強ができる」子供たちは傷ついてきたはずだ。

(中略)

もちろん

勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。

とかは言い過ぎで、やりたくないのに勉強してる子もたくさんいると思うけど、勉強ができること、そこから派生して印象付けられる「まじめな子」「(大人の言うことを聞く)いい子」が必ずしも賞賛される訳ではないということは僕も問題だと思う。

ちょっと「勉強ができる」論争から離れるが、一応サラリーマンを2年間やってきた僕が今思うこととして「サラリーマンはえらい」ということだ。朝同じ時間に起きて満員電車に揺られて朝からメールでせかされ嫌いな人間とも笑顔で話しプライベートな予定は残業があっさりと奪う。そんな毎日を何年何十年と重ねて彼ら彼女らが社会を作っているし、守っている。

サラリーマンといえばメディアでは「夢がない」象徴のようにして語られる。実際彼らの日常はつらいことばかりで子供に誇らしく伝えることが難しい場合が多い。だからといってアーティストだの芸能人だの一流デザイナーだとか有名美容師だとかホストだとかを「夢」のように惹きたてて、で、その夢がかなわずもしくはそんな夢を追わずに苦労を続ける人を貶めて。華やかなもので子供の目をだまし続けていてこの国は大丈夫なんすか。

離れすぎた。

何がいいたいかというと「勉強ができる」ことを頭の良し悪しに関係なく「がんばったね」「がんばってるね」とほめてあげる心を持とうや、ってことです。

こうして書いてみると僕がむきになっている点が本来の「勉強ができる=頭がいい なのか?」という点からはずれてることに気づいた。そうか。そもそも小飼さんはその議題じゃないところで語っているのか。だから噛み付いているようにみえたんだ。

理由はよくわからないが、負け犬の遠吠えだろうな

ま、釣り針が悪質なのが悪いとは思うけど。っていうか「勉強ができる=頭がいい なのか?」っていう点に関しては「そんなわけない」の一言で片付くと思うし。

ちなみにこのあと小飼さんがもう一度噛み付いて(しかもその記事は言葉遊びしてるだけの「頭が悪すぎる」記事)、何がなにやらといった感じになります。

「勉強ができる=頭がいい なのか?」についてちょっとだけ。

イコールはまったく成立しない。

漢字をいくつ覚えているかだとか計算がどれだけ速いかだとかと頭の良し悪しはイコールじゃない・・・というかこのお題で議論するなら「頭がいい」をまず定義しなきゃだめそうだ。とりあえず、学校の勉強に関してはイコ-ルじゃない。でも関係はある。

"頭が悪い"だとしても努力で試験点数なんかいくらでもあがる。少なくとも中学校くらいまでなら努力すれば誰でも100点取れるようなテストばっかだったと思うし。

あとはやる気の問題。

僕が高校生のころこんなことがあった。

朝鮮学校にはクラス委員長以外にもいろんな役職がある。掃除の責任者や体育関連の責任者など。そんななか僕は"学習部"という勉強関連の責任者をよくやっていた。

で、大体の役職は2人でやるんだけど先生に「相方は指名させてくれ」と申し出て、ある女の子を指名した。その子は点数でいえば中の中~中の下でやや校則違反気味の服装をしたりで先生からあまりよく思われていない子だった。ただ「クラスのみんなの勉強する環境をつくる」という点において人間的魅力が欠如している僕の欠点を補える子だと思ったし、下手に勉強できる子だと僕のやり方にはむかいそうだからとか色々とクズ的発想で、成績とかは気にせず指名した。

そして思わぬことが起きた。

試験が近づいた1週間前に彼女が「勉強を教えてほしい」と言い出した。せっかく部活がないのに。いつもなら遊びに行くだろうに。せっかくなのでしばらく勉強を、というか勉強の仕方を教えた。

しばらくして友達から、彼女が学習部である事をとても悩んでいるという事を聞いた。

友達としてもかなり仲がよかった僕にはそんな素振りまったく見せていなかったのに。

申し訳ないことをしたかもな、と思った。勉強なんてしたくないのに学習部なんかにしてしまったから変にプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。少し、後悔した。

ただ、彼女に勉強を教えていて気づいたのだが、彼女はそもそも自分の勉強の仕方を掴んでいなかっただけだったのでそれを教えてあえれば案外点数はあがりそうだった。

教えている間も彼女は「私なんて勉強できないから」などと弱気なことを言う。正直な話、成績上位の子達と地頭にそれほどさがあるようには思えない。あまりにも長い間「勉強ができない」子という扱いを受けていてそれが染み付いてしまっているだけだ。だから僕は彼女に自分のやり方を教えながら「こうやれば絶対覚えられる」だとか小さい声で「いやぁ、理解力はかなりあるよなぁ」だとかつぶやいて彼女の気持ちを「勉強ができる」人のものに変えようとし続けた。彼女の僕への信頼は絶大なものだったし「勉強ができる」僕がそれを言うことの意味を僕自身自覚していた。本当、小ざかしいな。

しかし、嫌いな勉強をやらなくちゃいけないからか、試験の数字前彼女はややヒステリー気味になっていた。

試験前には一応放課後に強制参加でクラスメイトを勉強させたり、勉強を教えたりしていたのだが多くのクラスメイトはあまり聞いてくれない。そんなことはいつもの事で僕はあまり気にもせずやる気がある人のために教壇に立って勉強を教えていた。

そのときだった。彼女が大声を張り上げてクラスメイトに注意をしたあとに泣き出して外に言ってしまった。なんと言ったかは覚えていないが「まじめに聞きなよ!」といった類のものだったはずだ。

自分があそこまで彼女を追い詰めてしまった。その思いから僕は彼女を追いかけることも出来ずにただ呆然としていた。

翌日「・・・ごめんね」と声をかけた僕に、彼女が手紙をくれた。

「昨日はごめん」

あやまらなきゃいけないのは僕のほうだ、と思った。しかし手紙の続きには僕の考えとは間逆のことが書いてあった。

相方として指名されたことがうれしかったということ。そうやって与えてもらった責任に見合う人間になりたいということ。

だから成績も上げたいし、クラスメイトのお手本になれるようにがんばる。

そんな前向きな言葉ばかりだった。僕は確かに彼女を追い詰めたけど、それは彼女にとってはプラスになっていた。だから、その後の試験で彼女がたしか学年5位になったときは心からうれしかったし、そして人は努力でなんとでもなる、ということを教えられた。

・・・え?おれ何の話してんだろ。ひとつの記事の中に違うチャンネルの話かいちゃったな。ま。いっか。何ていうか成績の良し悪しなんてちょっとした事で変えられる、みたいなことをつたえたかったんだけど・・つたわってなさそーw

あと補足ですが、中学高校のころの僕はクズです。もちろん、今も立派なクズです♪

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