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2009年10月

まず「在日 コピペ」で検索をしてみる

あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。
別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよw

日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑)
金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw
あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆)

俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw
バックに総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw
今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。

いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。
つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。
んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。
今はもうその最終段階に入ってるわけ。

平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw
例えば韓国ブーム。あれは在日が作ったって知ってる?
あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。
自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人w
韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。
そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

つまりもうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になるよ。
たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人w
お前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよw

いきなりどうした?と思われそうですね。念のため書いておきますが上の文は「在日 コピペ」で検索して最上位にあったものをそのまま持ってきました。

なるほど。数年前までは「在日特権」という題目で生活保護の項目をあたかもすべての在日が享受してるかのようなコピペが流行ってましたが・・・。コピペも成長するんですね。日本人視点から書くのではなく「悪い在日」というキャラクターに語らせるというのは中々良い戦略です。

さて、あまりこのブログを在日色の強いものにしたくないという気持ちがあるので、まず様子見で一本書いてみようというわけで題名のとおりしてみたのです。

このコピペは・・2ちゃんとかで流行ってるのかな?掲示板に張っておけば在日のネガティブキャンペーンになりますね。元ネタというか発信者がどこで発信したのかわからないなぁ。あきらかに在日だとわかる人間がブログとかで書いたなら残念なやつとしか言いようがないな。

実際こういうこと書く在日がいたとしてもおかしくはないと思う。あんだけネットで叩かれてりゃこんな風にゆがむやつも中には出てくるだろうし。んーでもこれ自体は在日が書いたとは思えないかな。おそらくネガティブキャンペーンで在日差別をしたがる人が書いたんでしょうなぁ。

どっちにしろこれを書いた人より、これを読んで在日への心証が悪くなるほうが僕は心配です。

検証するのもアホくさいけどさっくり検証しておきます。

日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑)

そんなこと考えてる人いるの?「楽して稼げる職業」ってなに?パチンコ?焼肉?サラ金?楽して稼げる職業なんていまどきありませんよ。それにこの3つとも日本人もなれるんだから、「楽して稼げる」なら日本人がやってるでしょ。

金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw

こんだけ在日であることを誇ってるコピペ主が”在日「でも」”なんて言うかね。

あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆)

これを書いたのが在日だとするとかなり軽薄な若者っぽいけど、よほど政治的な思想を持ってない限り「参政権」なんて興味持たないよ。持ったら何が特か、何が損かなんて考えられるほど思考能力があればこんな文章かかないでしょ。

俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw
今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。

んー、金の心配をしていない在日・・なんているの?みんな頑張って働いて生きてるけどねぇ。朝鮮学校の先生なんて月収10万前後な上に支払いが遅れることなんてざららしいけどね。

バックに総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw

総連も創価も在日一個人のためにバックで権力使ったりしてくれるわけないでしょ。っていうか創化って別に在日のためになんかしたりしないよね。そもそも総連にそんな権力ないよ。

っていうか働かなくても20万もらえるの??どこで??おれそんなんもらえるならいますぐ仕事やめるわww

っていうかさ、っやっぱりこういう文書くなら人物設定をまずきめなきゃ。

行政は何をもとに「在日である」って判断するの?特別永住権だよね?だとしたら「帰化人」はここに含まれないじゃん。帰化したら損しちゃうじゃんかー>< なのに年に1万人も帰化してるなんて・・・ザイニチノヒトタチ、セイギカンツヨイカ、アタマワルイ、ドッチカデスネ!!

いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。
つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。
んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。
今はもうその最終段階に入ってるわけ。

ふむ。在日の80%は日本人と結婚してます。

んで、朝鮮学校に通う子供の数は在日の子全員のうち10%未満だよ。どこでのっとる計画とか子供に仕込むの?家ってことかな。

のっとるっていうか今問題になってるのは在日が日本人化していることであって、のっとるとかほざけるような状況じゃないよ。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。
そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

日本人と在日の大きな認識の違いとして、戦前戦後に日本に来た(←この辺は言及するとめんどいので。)特別永住権を持ってる在日は、自分たちの事と、1980年~に日本に来た韓国人の事を一緒くたにして語ったりはしないよ。完全に別物だと思ってるから。「帰化人」ていう言葉初めてきいたわ。在日と「帰化人」は別物なんだよ。わかり難いとは思うけどね。

むしろ僕は大学のときに韓流のせいで、まるで在日のことを消し去るように、まとめて「韓国人」扱いされたことがとても悲しかったけどねぇ。

以上。あー書いてて気づいたけどちょっとでも在日のこと知ってる人なら騙されないし、在日自身が書くはずもないわ。でもやっぱりこういうの目に入って在日の心証悪くなってくんだろうなぁ。

こんな記事でも「在日」とかのワードで来る人が多すぎるようだったら後で削除しマース。

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勉強の話

前回勉強の話を書いた後いろいろ検索してたら、だいぶ昔のだけどちょっと一言言いたくなるような記事たちを見つけた。先に書いておくが、僕はたぶん今むきになっている。

事の発端ははてな匿名ダイアリーのこのブログ(http://anond.hatelabo.jp/20081221200806

勉強が出来る=頭がいい

僕はそう思って生きてきた。

でも、そのことを否定する意見が多い。

何故だ?世の中には勉強が出来ない奴のほうが多いからか?

そいつらが勉強が出来なくても自分は頭がいいと仮定なしで信じたがっているのか?

本質的な頭の良さは勉強なんてものに関係ないと「勉強もできない」のに主張しているのか?

理由はよくわからないが、負け犬の遠吠えだろうな。

これ自体はかなり極論で、いわゆる"釣り針がでかすぎる"記事だと思う。これに対して書評ブログで有名な小飼弾という人が噛み付いた。("意見した"じゃなくて"噛み付いた"。)

それじゃあ、勉強が出来る人が何がいいのか。

頭じゃなくて、都合。

学校では教師にとって、会社では雇用主にとって。

そりゃそうだ。命令する方から見たら、自ら努めて強いる子の方が、かれこれ質問する子よりずっとありがたい。

ついでに、「勉強が出来る」が「頭がよい」ことでない説明も。

勉強って、ほとんど頭使わないよね。

人様に言われたことを、やればいいんだから。

あんなに頭使わなくていいのに、親は小遣いくれるたし、会社も給料くれた。

(中略)

正直、ここまで煽るような書き方をする理由がさっぱりわからない。

「勉強が出来る」が「頭がよい」ことでない

こんな事意見するまでもなく当たり前の事だと思うのだがそこまで煽る必要がどこにある?

小飼さんはよっぽど「勉強ができる」人を否定したいんだろうな、と思えてしまう。もっと言えばコンプレックスがあるように思う。

僕はこの人の事が前から気になっていて、そのうち書評ブログを読んで参考にしようかと思っていたのだが「頭が悪そう」なのでやめることにする。

正直、小飼さんの記事全文につっこみを入れることができるがとりあえず大前提の話を。

小飼さんは高校にいかずに大検をとって大学にいき、その後プログラマーとして有名になった人だ。

いわばアウトローから自分の腕一本で一流になった人で、尊敬に値する。が、それは小飼さんの稀有な才能と運のたまもので(その配分が何対何かは・・まあいいや。)万人に当てはまるものではないし、むしろ大多数の人間にとって自分の腕だけでのし上がることは困難だ。

経歴を見ればわかるのだが小飼さんは一般的なレールからは降りたけど「勉強ができる」人で「頭がいい」だ。それがここまでかみつくのは、上の匿名ダイアリーを書いた人に、与えられたレールに乗って「勉強ができる」優等生的な姿を勝手に見たのではないだろうか。中学で学校教育に疑問を感じて登校拒否していたという小飼さんにとって、この匿名ダイアリーの書き手のことが、かつてかれが疑問を感じた教室で命じられるままに勉強をしていた優等生たちとかぶってしまったのではないだろうか。

前回もちょっとだけ書いたけど、やっぱり今も社会は学歴も含めて人を判断するし、自分を売り込む手段として勉強をして学歴を上げることに意味はある。そのために勉強している人、「勉強ができる」人には暖かく「がんばれ。きっとその努力が実を結ぶよ」と声をかけてあげればいいだけのことだ。

小飼さんには「勉強ができる」人なんぞ誰かに強いられてレールの上で踊らされてるだけにしか見えないらしい。

でも自分がそういうわかりやすいレールに乗らずに成功したからといって、レールの上でがんばる人を否定する神経はおかしいと思う。心が狭すぎる。

この小飼さんの記事に対して東大博士課程卒業の女性がこんな記事を書く。

「勉強ができる」という蔑称-理系兼業主婦日記

(中略)

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?

かけっこが速い子=素朴で子供らしい子、勉強ができる子=小賢しくてかわいげのない子、という印象がまかりとおっているように思えてならない。

この印象論が大人に対して、「頭がいい・悪い」という言葉をもって当てはめられると、勉強以外が得意な人=頭のいい人、勉強が得意な人=頭の悪い人、という差別的言辞になるのではないか。

実際は、かけっこが速くたって小賢しい子はいるし、勉強ができたって素朴な子はいる。

大人だって同じことだ。

ただ世間智に長けているだけで「自分は勉強はできないけど頭はいい」と思っている人は、頭がいいと言えるのか。

実際には因果関係がないものに、因果関係を見出そうとする態度こそ、「頭が悪い」となじられてしかるべきではないか。

勉強ができる、できないにやたらと拘る人に問いたい。

子供のころは「子供らしさ」という基準で、大人になったら「頭のよさ」という基準で、他人の人格に優劣をつけなければ気が済まないのですか、と。

あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。

勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。

ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。

でも、どうしてもそういうことにしたがる大人が多いこと、そんな大人に影響を受けた子供が多いことに、多くの「勉強ができる」子供たちは傷ついてきたはずだ。

(中略)

もちろん

勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。

とかは言い過ぎで、やりたくないのに勉強してる子もたくさんいると思うけど、勉強ができること、そこから派生して印象付けられる「まじめな子」「(大人の言うことを聞く)いい子」が必ずしも賞賛される訳ではないということは僕も問題だと思う。

ちょっと「勉強ができる」論争から離れるが、一応サラリーマンを2年間やってきた僕が今思うこととして「サラリーマンはえらい」ということだ。朝同じ時間に起きて満員電車に揺られて朝からメールでせかされ嫌いな人間とも笑顔で話しプライベートな予定は残業があっさりと奪う。そんな毎日を何年何十年と重ねて彼ら彼女らが社会を作っているし、守っている。

サラリーマンといえばメディアでは「夢がない」象徴のようにして語られる。実際彼らの日常はつらいことばかりで子供に誇らしく伝えることが難しい場合が多い。だからといってアーティストだの芸能人だの一流デザイナーだとか有名美容師だとかホストだとかを「夢」のように惹きたてて、で、その夢がかなわずもしくはそんな夢を追わずに苦労を続ける人を貶めて。華やかなもので子供の目をだまし続けていてこの国は大丈夫なんすか。

離れすぎた。

何がいいたいかというと「勉強ができる」ことを頭の良し悪しに関係なく「がんばったね」「がんばってるね」とほめてあげる心を持とうや、ってことです。

こうして書いてみると僕がむきになっている点が本来の「勉強ができる=頭がいい なのか?」という点からはずれてることに気づいた。そうか。そもそも小飼さんはその議題じゃないところで語っているのか。だから噛み付いているようにみえたんだ。

理由はよくわからないが、負け犬の遠吠えだろうな

ま、釣り針が悪質なのが悪いとは思うけど。っていうか「勉強ができる=頭がいい なのか?」っていう点に関しては「そんなわけない」の一言で片付くと思うし。

ちなみにこのあと小飼さんがもう一度噛み付いて(しかもその記事は言葉遊びしてるだけの「頭が悪すぎる」記事)、何がなにやらといった感じになります。

「勉強ができる=頭がいい なのか?」についてちょっとだけ。

イコールはまったく成立しない。

漢字をいくつ覚えているかだとか計算がどれだけ速いかだとかと頭の良し悪しはイコールじゃない・・・というかこのお題で議論するなら「頭がいい」をまず定義しなきゃだめそうだ。とりあえず、学校の勉強に関してはイコ-ルじゃない。でも関係はある。

"頭が悪い"だとしても努力で試験点数なんかいくらでもあがる。少なくとも中学校くらいまでなら努力すれば誰でも100点取れるようなテストばっかだったと思うし。

あとはやる気の問題。

僕が高校生のころこんなことがあった。

朝鮮学校にはクラス委員長以外にもいろんな役職がある。掃除の責任者や体育関連の責任者など。そんななか僕は"学習部"という勉強関連の責任者をよくやっていた。

で、大体の役職は2人でやるんだけど先生に「相方は指名させてくれ」と申し出て、ある女の子を指名した。その子は点数でいえば中の中~中の下でやや校則違反気味の服装をしたりで先生からあまりよく思われていない子だった。ただ「クラスのみんなの勉強する環境をつくる」という点において人間的魅力が欠如している僕の欠点を補える子だと思ったし、下手に勉強できる子だと僕のやり方にはむかいそうだからとか色々とクズ的発想で、成績とかは気にせず指名した。

そして思わぬことが起きた。

試験が近づいた1週間前に彼女が「勉強を教えてほしい」と言い出した。せっかく部活がないのに。いつもなら遊びに行くだろうに。せっかくなのでしばらく勉強を、というか勉強の仕方を教えた。

しばらくして友達から、彼女が学習部である事をとても悩んでいるという事を聞いた。

友達としてもかなり仲がよかった僕にはそんな素振りまったく見せていなかったのに。

申し訳ないことをしたかもな、と思った。勉強なんてしたくないのに学習部なんかにしてしまったから変にプレッシャーを与えてしまったのかもしれない。少し、後悔した。

ただ、彼女に勉強を教えていて気づいたのだが、彼女はそもそも自分の勉強の仕方を掴んでいなかっただけだったのでそれを教えてあえれば案外点数はあがりそうだった。

教えている間も彼女は「私なんて勉強できないから」などと弱気なことを言う。正直な話、成績上位の子達と地頭にそれほどさがあるようには思えない。あまりにも長い間「勉強ができない」子という扱いを受けていてそれが染み付いてしまっているだけだ。だから僕は彼女に自分のやり方を教えながら「こうやれば絶対覚えられる」だとか小さい声で「いやぁ、理解力はかなりあるよなぁ」だとかつぶやいて彼女の気持ちを「勉強ができる」人のものに変えようとし続けた。彼女の僕への信頼は絶大なものだったし「勉強ができる」僕がそれを言うことの意味を僕自身自覚していた。本当、小ざかしいな。

しかし、嫌いな勉強をやらなくちゃいけないからか、試験の数字前彼女はややヒステリー気味になっていた。

試験前には一応放課後に強制参加でクラスメイトを勉強させたり、勉強を教えたりしていたのだが多くのクラスメイトはあまり聞いてくれない。そんなことはいつもの事で僕はあまり気にもせずやる気がある人のために教壇に立って勉強を教えていた。

そのときだった。彼女が大声を張り上げてクラスメイトに注意をしたあとに泣き出して外に言ってしまった。なんと言ったかは覚えていないが「まじめに聞きなよ!」といった類のものだったはずだ。

自分があそこまで彼女を追い詰めてしまった。その思いから僕は彼女を追いかけることも出来ずにただ呆然としていた。

翌日「・・・ごめんね」と声をかけた僕に、彼女が手紙をくれた。

「昨日はごめん」

あやまらなきゃいけないのは僕のほうだ、と思った。しかし手紙の続きには僕の考えとは間逆のことが書いてあった。

相方として指名されたことがうれしかったということ。そうやって与えてもらった責任に見合う人間になりたいということ。

だから成績も上げたいし、クラスメイトのお手本になれるようにがんばる。

そんな前向きな言葉ばかりだった。僕は確かに彼女を追い詰めたけど、それは彼女にとってはプラスになっていた。だから、その後の試験で彼女がたしか学年5位になったときは心からうれしかったし、そして人は努力でなんとでもなる、ということを教えられた。

・・・え?おれ何の話してんだろ。ひとつの記事の中に違うチャンネルの話かいちゃったな。ま。いっか。何ていうか成績の良し悪しなんてちょっとした事で変えられる、みたいなことをつたえたかったんだけど・・つたわってなさそーw

あと補足ですが、中学高校のころの僕はクズです。もちろん、今も立派なクズです♪

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「勉強が出来る」事の価値

我が家は片親で、かつ小学生と中学生の弟がいます。
弟たちは小さなころから父親がいなかったので、少しくらいは自分が父親代りをしなくてはいけないな、という思いがあります。

最近中学生の弟がいわゆる受験世代になり塾やらに行き始めました。
我が家は家系的なものなのか、兄弟共に試験点数はよく頭の回転が速いというこざかしい特徴があるのですが、そんな中で上の弟だけはさほど勉強への情熱を持たず、中の下くらいの成績をさまよっていました。
やる気がないだけ、というのが家族の共通認識でやる気になるきっかけさえあればすぐに成績なんてあがるものだと思っていました。

僕は自分が高校生のころに十分に勉強をしなかったことを少し悔いています。
朝鮮学校出身という観点からみればかなり上位の大学に入りましたが狭い世界の中でトップだったというだけの話です。
情けないほどに「身近に東大目指してる人がいれば自分ももっとやってたよな」なんて考えたりするのです。

大学に入り、人と出会い、働いているなかで高学歴の人間と接してみてわかったことが「慶大生は聞かなくてもそれを女の子にアピールしたがる」「くだらない人間でも学歴だけで崇められる」という下らない結論でした。そして僕という個人が他人と関わる時に「相手の学歴は関係ない」ということ。同時に社会が個人を判断する時に「学歴は関係ある」ということ。

学歴というのは一つの名刺だと思います。それは例えれば歌がうまいとか絵がうまいとか、顔がいいとか、性格がいいとかと同列でありながら、使える場面が多い名刺です。
だから僕のような、その他の名刺をひとつも持てないような人間はせめて学歴の名刺を持つべきでした。
一方でそんな名刺がなくとも十分に魅力を放っている人が大半なわけでそういう人たちは無理して取るものでもないと思うのです。

話は弟に戻りますが、僕は彼のことをわざわざ学歴の名刺を持つ必要はない人間だと思っています。兄バカかもしれませんが。

最近の彼の塾での成績を見たところ、偏差値が10あがってました。塾で行っている成績上位者限定の講義に招待されたりしているらしく、いざこうなってみると彼が偏差値だの高校のレベルだのといったものに価値を置くような人間にはなってほしくないという焦りの方が強くなってきます。

もちろん、彼はそんな点数をとったことを誇るでもなく、母の小言が減ったことを喜んでいるくらいのものです。僕はもう彼にこれ以上の努力を強いる必要はないと思っています。

ただ、名前の通った大学に行っておくことで手に入る名刺の便利さをうまく伝えながら、名刺はあくまでも名刺でしかないということをうまく教えてあげられる言葉を探しています。ちゃんとした父親ならその背中だけでそれを伝えられそうですが僕にはまだ難しい事です。

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【少女漫画】ハチミツとクローバー(羽海美チカ)

美大の学生や教師などの片思いを描いた物語です。
思春期を少し過ぎたモラトリアムの頃の青臭さやほろ苦さをぐつぐつ煮詰めたような、一人で読んでるのに恥ずかしくて叫びだしたくなって思わず周りを見回してしまうような漫画です。

この作品のころの羽海野チカさんはシリアスとギャグの分量が絶妙で、シリアスな部分を破たんさせない程よい緩さが出るギャグが良いタイミングで挟まれています。

美術の天才である花本はぐみという少女に恋をする竹本の視点から物語は始まります。
一目ぼれから始まり、花本はぐみの美術への思い、その取り組み方や苦悩を見て彼女に恋をすればするほど、竹本は凡人である自分の弱さや情けなさを実感していきます。
そして就職もうまくいかず、自分が何がしたいのかもわからずに、竹本は自転車に乗って一人旅に出てしまうのです。

僕は読んでいてこんな旅したかったなぁ、と思わず思ってしまうような楽しくて孤独でお尻がやけにいたくなるようなその青臭さがたまらなく懐かしい気持ちになりました。
旅から帰ってきた竹本には待っていてくれる人がいて、成長した彼をむかえてくれるのです。

一方、竹本と同じ寮に住む真山はバイト先のデザイナーにストーカーのような恋をしています。(とゆーか完全にストーカーなんですけどね)
そんな真山に恋をする山田あゆみ。山田あゆみの思いは真山に筒抜けで、でもそれにこたえることは出来ない真山。
真山の背中から山田あゆみが告白するシーンはまさにこの物語の名シーンの一つで胸がしめつけられる思いがしました。

やがて、卒業を迎えてみな離れ離れになる日、竹本は花本はぐみを自転車の後ろにのせて告白をします。
それは、ただ自分の気持ちを伝えたいというだけの純粋な告白で、そんな損得勘定なしの恋をした思い出がある人も多いのではないでしょうか。

旅立ちの列車の中で竹本は自分に問いかける。

―ずっと考えていたんだ。

―かなわなかった恋に意味はあるのだろうかと

別れ際、花本はぐみがくれたクローバーが詰まったサンドウィッチを食べながら答えをみつけます。
そう思えるから、片思いになってしまったことも全部受け入れてまた新しい恋ができるのだと思います。

片思いをしたことがある人なら絶対に共感できるはずです。

今片思いをしている人にも、片思いしてた頃を思い出したい人にもオススメの漫画です。
ただし、絵がちょっとメルヘンなので少女漫画が苦手な人にはつらいかもしれません。

ちなみにこの漫画は1巻だけ読んで読むのをやめてしまうのはもったいないです。
なぜなら、描きだしたころはたぶん連載が続けられるかわからなかったようで、ほぼ1話完結のギャグ漫画みたいになっている。
2巻以降に片思いが表面化してきた頃からがこの物語の始まめりなので、まだ読んでない方はとりあえず2巻までは読んでみてください。

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議論すら成立させずに勝利をつかみ取る単語

昔から僕に対する褒め言葉としてよく言われたのが「感受性が強い」という言葉でした。
僕はこの言葉が大嫌いで、それを言われるたびに妙な反抗心ばかり覚えたものでした。
大人になった今でもこの「感受性が強い」という言葉の意味はわからないし、そういう褒め言葉をかけてくる人を信じちゃいけないなという気分はあります。

何が言いたいのかというと、「感受性」という単語を使う人というのは「感受性」に含まれる多くの要素を自分の言葉で説明しようとせず曖昧なまま納得してしまっている残念な人だ、という事です。
しかもこの言葉を使うと「自分には感受性がある」という状態を作り上げて優位に立つこともできます。

似た用法の言葉として「本質」という言葉があります。
例えばある漫画を読んで「面白くなかった」と感じた人に対して「君はあの漫画の本質がわからなかったんだね」と言ってしまえば優越感に浸れること間違いなし。
本当にもう言ったもん勝ちの言葉で議論で負けそうになっても「お前は本質がわかってないね」の一言であっという間に勝てます。

あとは「センス」もずるい言葉ですね。
「センスないな」と一声かければ即不戦勝。

僕はこれらの発言をする人は自己陶酔のまま年老いて死ぬ人だと思っているので接触をさけるようにしています。
それすらも彼らの自己陶酔をさらに絶頂へと向かうだけなので癪ですがしょうがありません。

皆さんも議論に勝ちたかったらこう言い放ちましょう。
「お前は感受性がないから本質をつかむセンスがないんだな」

自分で書いてていらっとしてくるなぁ。

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M-12009予想②ハライチ

僕はこの人たちがどの層にうけてて人気になってきてるのかがわからないのですが、最近テレビでよく見かけます。
「~~なやつ」というフリに対して坊主頭が連続で答えていく、というスタイルです。
http://www.youtube.com/watch?v=2D_9QeWm9fs

「4分間でどれだけ笑いを詰め込むか」が勝負になっている最近のM-1ではフリを出来るだけ短くして立て続けにボケて笑いを詰め込むのかが重要になってきています。
従来の漫才をそういう風に改良したのがノンスタイルだし、フリがいらないダジャレを使うことでボケを増やしたのがナイツです。
だからハライチのこのスタイルというのはそれらのさらに上を行くM-1向きな手法だと思います。

僕は彼らを初めて見たとき、素直にすごいと思ったのと同時に嫌悪感を覚えました。
漫才を見ていただければわかるのですが、フリを行う側のキノコ頭が終始誘い笑いをしています。
それがあまりにもしつこくてこっちは置いてきぼりなのです。

あれはなんなんだろう。
彼らのファンだけが来るようなライブであれば誘い笑いにのせられるような人ばかりでしょうが、M-1の審査員は別に彼らのことなんか好きではありません。
大体、誘い笑いをしなくてはいけないのはボケが弱いからに他ならないのです。
ざっくり彼らのことを検索してみたところ、フリに対する対応をアドリブでやることが結構あるらしくそれが面白くて思わず笑ってしまっている、という説明をいくつか見つけました。

それが真実なのかはかなり怪しいと事ですが、ともあれこういう話がネットで流れているということは誘い笑いをしている彼には「アドリブで笑っちゃってる」という言い訳が用意されているんですね。
そこまで計算して「笑っちゃってる事にしてるけど本当は全部台本」だとしたらまだましですが、本当にアドリブであんなに何回も笑ってるなら決勝には来ないで欲しいものです。
審査員席に座ってる人らが若手の誘い笑いなんかにのるはずもなく、むさい顔をした顔がカメラに抜かれるだけでしょう。
誘い笑いを使うなら4分間に一回で十分。それもハプニング的にアドリブをした結果こらえきれず、という形だけで行ってほしい。もしくは誘い笑いに変化をつけたり。

本気でM-1に優勝する気があるならまず坊主頭の方の対応のレベルをあげるべきかと思います。

とりあえず今のところは決勝には来てほしくないコンビです。

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M-12009予想③マヂカルラブリー

彼らの事を知っている人はあまり多くないかと思います。
昨年の敗者復活で結構話題になったらしく、見たことがない方は一度見てみてください。

いかがでしょうか。半分くらいの人は全く笑えないかもしれません。僕は大好きです。

彼らが決勝に上がるかどうかは運次第かな、と思います。決勝に上がってきてもおかしくないけど準決勝の審査員や観客、他のコンビの出来次第です。飛び道具的なキャラなので相手次第では上がれないかもしれません。
もし出場することが出来たら南海キャンディーズが初出場した時のようなインパクトは与えられるはず。

正直、僕は彼らのことを好きになったのでぜひ決勝に出てほしいところです。
優勝は出来そうもないですがオーソドックスな漫才をするコンビをあげるよりもよっぽど面白い。

後はツッコミの人に山ちゃんレベルの語彙力があれば最終決戦に残ってもおかしくないと思います。
まぁ、野田君を全国放送にのせられないと判断されてしまってやっぱり今年も駄目かもしれないですが。。

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M-12009予想①オードリー

こういうエントリーはとても怖いのですがたまには予想をしてみます。

今年のM-1、エントリーさえすればオードリーは決勝まで来ると思います。(今確認したらエントリーしてました)
彼らのネタはどの会場で予選をやってもしっかり笑いを取るレベルだし、未だにテレビ的な旬も終わっていないので準決勝で落とす理由が見当たりません。
しかし優勝は絶対にしない。
なぜなら昨年を超える笑いを生むことはないからです。そして今のオードリーのスタイルでは昨年を超えるネタも出来ないからです。

彼らと同じ立場でM-1を優勝したコンビとしてアンタッチャブルがいます。まず敗者復活からあがって3位、そして次の年に準決勝から上がって優勝。スタイルもコント漫才という点で似ています。
(コント漫才・・・漫才形式ありながら途中でコントをするもの。サンドウィッチマン、アンタッチャブルなど。「おれ○○になってみたいんだよね」などの導入から設定に入る方法)

しかしアンタッチャブルとオードリーには明確な違いがあります。
アンタッチャブルのネタというのは父親と息子だったり、娘との結婚を申し込みに行く男と娘の父だったりと山崎・柴田それぞれに役割を与えてやるものです。なのでネタそれぞれに味があり差が出てきます。

オードリーについて「あれは漫才じゃないの?」と思う方がいらっしゃるかもしれません。確かに若林・春日が普通に会話をしてるだけですが、春日のキャラが強烈すぎる(そしてその強烈さを"作っている")のであれは「春日というキャラ」なんです。
だからオードリーの漫才は大体あの形しかありません。例えればアンタッチャブルが毎回「娘との結婚を申し込みに行く男と娘の父」という設定でネタをやっているようなものです。若林の対応でバリエーションは出せるけどもネタに新鮮味はありません。「春日というキャラ」を打破しない限りは昨年と同じ設定のネタを多少修正しただけのネタになってしまいます。
現状テレビでも「春日というキャラ」でやってるのでM-1でそれを破ってくるとは思えません。結果、昨年より新鮮味がない分笑いは少なく、最終決戦に進むことはあっても審査員が敢えて優勝させる決め手がないので、決選投票で敗れると思います。(個人的には最終決戦にすらいけないと思う)
逆に去年と同じフレームの漫才でオードリーが優勝してしまうようでは今年のM-1は相当レベルが低いということになってしまうと思います。

昨年の最終決戦ではちょっと色が違うネタをやってました。ラジオで聞いたら「打ち合わせなしでぱっとやれるネタがあれしかなかった」そうです。あのネタは確かにちょっと弱かったし、「春日」を求めていた観客の空気を読めていなかったので優勝できなかったのも仕方ないと思います。でも、ああいう形で春日の別の使い方を開拓してくれるんじゃないかという期待もしています。
何しろ僕はオードリーというか若林のファンなので若林なら何かこちらの度肝を抜くような事をやってくれる気がするのです。

なので、オードリーが優勝できないのは去年と同じ戦い方をした場合であって、本当は優勝してしまうような何かが出てくるのをとても期待しています。

※11/20追記

オードリー、今年参加してないみたいですね。大変失礼いたしました。僕は何を見て参加してるとおもったんだろう。

でもこれで今年は正統派の年な気がする。磁石いけるかも。

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言葉

言葉っていうのは誰もが持ってる能力のようで、実際は明らかに別次元の言葉を習得している人がいるな、と感じます。

思考を伝えるための変換をする時に選ぶ言語、それを意味のある文として構成するっていう行為の、言語化をする瞬間とそれを構成する瞬間を見て、「一体こいつの頭の中はどうなってるんだ」とあきれるような人が何人かいます。

それは技術とかじゃなくてもう才能としか言いようがない気がします。

―やっぱり台風って、恋に似てる

そんな一文だけでやられてしまいました。敗北感というか屈辱感というか、自分が凡人であることを思い知らされる瞬間なのです。

本当は全文ここに転送したいけどマイミクの文章なんで一文だけ。これだけじゃ伝わりそうもないけど・・。

それでも自分だってそういう言葉の使い方をしてみたいと思います。

自分で言うのも情けないですが僕の持っているものといえばパクリ技術だけです。

卓球も、笑いも、今もってる言葉だって自分があこがれたものから必死にパクった結果です。大好きなものを沢山見てごちゃまぜにして、真似して、自分ができることだけ残して自分のものにすることだけが自分の才能だと思ってます。

決してオリジナルではないけど、そうやって自分がよいと思ったものをうまく抽出して人に伝える能力はもしかしたらあるのかもなと感じています。

屈辱感を感じる人の文章を読んで、必死にその分析をして・・。無駄なことになるかもしれないけどやるしかない。

どうもしばらくはこういう無価値な記事ばっかになりそうな予感。

忘れようとがんばってる時期だから仕方ない。

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心が動いた日の事は書いておきたい

仲良くしてる女友達が留学に行くということで久々に騒いで来ました。

その子の事は、どう考えても友達じゃなければ大嫌いなタイプで、街頭インタビューとか答えてる映像流れたら「ウゼェ」って言ってチャンネル変えるに違いありません。

でもどうしてか嫌いにならないし、むしろかわいくなっていく。なんでだろうなぁ。

別に彼女のことを恋愛的に好きなわけじゃないんだけど、小学生の頃の先生が「大好きな子とずっと一緒にいられる方法」を教えてくれたことを思い出しました。

その方法とは、「限りなく太れ」「それが無理ならずっと近くにいろ」。ふざけてんのかと思われそうですが、質量があるものには引力があってそれは質量が多いほど大きいそうです。だから好きな子を引き寄せたければ太れ、と。

そのときはよくわからなかったけど万有引力の法則の話をしてたんだと思います。

万有引力の法則は『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』

「心もおなじだから」

だから近くにいればいるほど引き合う心も大きいと。

先生にしてはやけに感傷的なことを言う人でした。

だから僕が彼女を嫌いにならないのは「近くにいるから」なのかも。それだけかい、って話でもありますが、でもたぶん「近くにいる」っていう状態が起きる可能性の低さを考えれば、もうそれだけで十分仲良くなる理由になるんですね。なんだか青臭い上にありがちな結論になっちゃいましたけど。

ともかく、うっとおしい彼女が元気で帰ってくることを楽しみにしていることにします。

最後に僕の弱いところグサっと刺していきやがったので言い返してやらなきゃいけないし。

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その時までサヨナラ(山田悠介)

著者は日本語が下手です。でも作家として有名な方です。
僕もだいぶ昔にどれか一冊読もうとしました。でも言葉の誤用にイライラしてしました。数ページで読むのをやめました。

もしかしたら今なら読めるかもと思いました。ダメでした。
言葉の誤用のせいではありません。
こういう文体だからです。

この人は場面の様子を伝えるのが下手です。一文で済むことを何個にもわけます。
子供の作文みたいです。読んでて疲れれるうえにテンポが悪くとても不愉快でした。

なのでまた数ページでやめちゃいました。

僕の思考が緩慢になって、複雑な文章を読めなくなったらまたこの本を開いてみます。
―その時までサヨナラ。

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笑いの分析⑬~自虐~

お笑いを評価するにあたって「他人を傷つけてはいけない」という観点があります。

どんなに面白い事であっても、誰かを貶めたり傷つけたりして取る笑いは問題外という考え方です。
僕も概ねこの意見には賛成なのですが、一方で「誰かを傷つけることは面白い」というのも一面では真実です。

多くの人が誰かを傷つけて馬鹿にして優越感に浸ったことがあると思います。
特に小学生くらいの頃であれば自分ではなくてもクラスの中にひとつやふたつ、イジメがあったと思います。
イジメに関して言えば、僕は「イジメをする子は悪い子」という考え方には反対です。テストの点数、駆けっこの順位等など色々なところで競争が行われていて、優秀な子は褒められ、劣っている子は怒られたり叱責されるじゃないですか。
そういうことをやっている以上子供たちの中に「優位に立ちたい」という思いがわくのは当然の話で、それを簡単に手に入れる方法がイジメなのですから。

だから子供を教育するには、むしろ「イジメはだれもがする可能性がある」というところからスタートして「でもイジメをしてはいけない」ということを教えなくてはいけないと思っています。
それには「弱い子のことはまもってあげなきゃけない」だとか「イジメをしたらいつか自分に返ってくる」だとか理由は諸々ありますが、子供の「優位に立ちたい」願望を抑えられるほど決定的なものはなく、そこが教育の難しいところかもしれません。

とても話がそれてしまいましたが、何が言いたいかというと「他人を傷つけるのは楽しい」けど常識的な大人は教育の中で禁止事項として「他人を傷つけてはいけない」ということを刻み込まれているということです。

だから身体的特徴や性別などで露骨に他人を傷つける笑いには嫌悪感を示すのです。

ところが身体的特徴などを笑いに出来る唯一の方法があります。それが自虐です。(やっと本題に辿り着いた)

自虐というのはつまり、「面白い事なんだけど笑ってはいけない」と思ってる事象について「笑っていいんですよ。だって私が自分で笑いにしているんだから」という笑いです。これは禁止を破るという笑いも生みます。(参考

体系が太めであること、髪が薄い事、幸薄そうな顔などなど自虐として使えるネタはたくさんあります。
それらのことについて「笑っていいんですよ」ということをうまく伝えられれば自虐は成立します。
自虐するにあたって大事なのは「自分は全く気にしていない」という意思表示をする事です。
自虐とネガティブ思考はギリギリの表裏一体となっているので、少しでも「気にしている」雰囲気を出してしまうと相手が笑うことをためらってしまいます。

そして自虐で笑いがとれたからといってそれに頼りすぎるのはやめましょう。
頻発しすぎると徐々に「ネガティブ思考の人」というレッテルが張られてしまい、笑いではなく苦笑いになってしまいます。

自虐として使っていいネタの境界線というのは難しくて、いかにあなたが笑って話していても相手にとっては笑えない話になってしまうときがあります。

これはもう人それぞれとして言いようがないのですが、一般的な基準で言えば「
テレビで誰かがやってる自虐」は大丈夫だと思ってよいと思います。

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【少女漫画】僕の初恋をキミに捧ぐ

僕の初恋をキミに捧ぐ 1 (フラワーコミックス)

表紙の絵の感じが嫌いだったので読んでなかったのですがなんとなく読んでみました。

内容に関していいとか悪いとか言えるタイプのものでもないんでそれ以外で。

普段読もうと思えないのになぜか手に取る気になる、というのは今の自分に必要だからよばれてるんだな、と思います。

とても悲しくてつらい話なので、そういうものを読んだり見たりするととても落ち込む事はわかっていたけど、そういう物語って読み終わった後に今自分にあるイライラとか悲しみとかつらいこととかを「大した事ない」って切り替えて前向きになるのに役立つと思うんです。

ごめんね、とかありがとうとか普通に生活してたら言いそびれがちなことを素直に言うためのスイッチを入れてくれる。そんな気がします。

だから、普段本屋に行ったりしない人でもなんとなく本屋に行ってほしいな、と思います。ふらっと歩いていれば自分を呼んでる本があるはずです。自分ひとりでは解決できないことを解決するスイッチを入れてくれる力がある物語が並んでるはずです。もちろん、本じゃなくても映画とかでもいいと思います。

そうやって色んな物語を胸に収めて自分の人生を歩むのが豊かな命の過ごし方だと思うのです。

オススメとは言えない作品でしたが出来れば心の奥にちょっと覚えといてくれて、大切な人がいるのにでも何か素直になれない気分になるときがあったら読んでみてください。

以上が感想です。

次いで物語を作りたい人として少しだけ。

少女漫画がなぜ好きかっていうことを考えていると、ベタだから、ってとこに行き着きます。

95%は恋愛を扱いながら、着いたり離れたりを繰り返すだけです。その味付けとして、家庭の悩みとか、人の死とか、スポーツとかを使うけど結局は人の心の機微を描いてるんです。最後にわかる答えだっていつも決まってるけど、でも普段の生活では当たり前すぎて薄まってしまうんです。そういうものを一旦リセットして、素直にまっすぐ生きていけるような力を与えてくれるんだと思います。

男向け漫画だとそういうのはもっと複雑に描かれていて、現実に近づいちゃってる分、シンプルなことが逆に見えなくなってしまうんです。

あと、この作品の最後はたぶん賛否両論あったかと思うし、考えてみれば全然ありうる終わり方だけどあまり見たことない形でした。

作者さんが一番物語を大切に思ってるだろうにこういう終わらせ方は中々できないと思います。その分長く読者の気持ちに残る良い終わり方でした。

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20分間耐久速記

よそ様のブログで楽しい企画をやってたのでちょいとのってみます。

ルールは内容を事前に決めずにともかく20分間何かを書く、ということみたいです。

ではスタート!!

*************************

というわけではじめました。書く内容を考えずに書き始めてみたもののさっぱりうかびません。もともと僕は推敲とかしないほうなんで内容がめちゃくちゃにはならない気がしますが、さてどうか。

こういうときは日常の記事では絶対書かないようなくだらないことを書いてみるのがよさそうです。自分の人生で記事にはならないけど自分にとって価値があるものといえば・・・中学高校のときの部活かな。

卓球やってたんですけどね。あ、こらっ、そこ!稲中とかいわないの!オタクとか言うな!

いや、たしかに卓球の試合会場のオタク率の高さは以上でしたけどね。あとワキガ率。あれは地獄でした。しかも試合前にラバー張るためにシンナー的なものを使ってみんあやってるんで、会場の前はシンナー臭いというね。みんなでラリってるわけですよ。

卓球は最高に面白いです。でもマイナーですよね。僕はテレビ東京に提案したいのですが「卓球の観戦の仕方」を提示してほしいんですよ。テレビでたまに卓球やっててもあまり盛り上がらないし、どこがどうすごいのかわからないじゃないですか。

卓球の面白いところはラケットの角度が数度ずれただけで玉が入らないってことなんですよ。打った球が代にちゃんとはいるのかどうか、その一瞬が数分にも感じられるような緊張感がたまらないんです。一方で本当に気持ちを静めて集中しないと玉は入らないんです。だから卓球を感染する場合は

①選手がサーブを構えたら静かにして固唾を飲んで見守る。

②ラリーが続いてる間は「入れ!入れ!」って祈りながらうめくような声をドラゴンボールの御飯みたいに出す「・・・あっ・・あっ・・」的名。

③すばらしいラリーが続いたら、どちらかにスコアが入った瞬間に拍手でたたえる。

これが正しい卓球の楽しみ方です。まずテレ糖がこういう楽しみ方を視聴者に知らせてください。よろしく!

せっかくなので自分が卓球してたときの話も。卓球って本当に気持ちで左右されるスポーツです。手の角度が少しでもずれたら玉は入らない。緊張なんて使用門ならいつもの半分も力が出ない。だから自分のもってる技術と気持ちをうまくバランスとって試合に臨むことが重要なんです。所詮は学生の部活でしかない僕がいうのもおこがましいですがいわゆるゾーンみたいなのに入ることもあります。

ほんとに相手の構えをみただけで次どこに打ってくるかわかる。相手が次にどこに動こうとしているかわかる。相手コートのどこにでも打てる気がする。6年間で3試合くらいでしたけどね。ちなみに1年に50~100試合くらいしてたんじゃないでしょうか。

僕は6年間やってたのですが、忘れられない試合というのがぱっつ・・・・4つ今思い浮かびました。地区予選である程度好成績をあげて調子に乗ってた僕が、シード扱いの人と試合をしたときに、1球目の僕のサーブを相手がそのままドライブで返してきたシーンは今も忘れません。サーブした次の瞬間にはもう球は僕の後ろにあって「ドライブされたのか?」って後からきづくような感じでした。その一級だけで今の自分じゃ相手にならないとしらされたのです。そのときが中①で、高2の時に再選したのですがそのときはちゃんと打ち合うことができました。まけちゃったけど。

他にも、先輩の引退試合でどうしても勝ちたい気持ちが強すぎて、試合が始まった瞬間に手が震えてしまってほぼ一球も返せずに試合が終わってしまったことも忘れられません。試合に負け手ないたの2回のうち一回がそれでした。でもその試合の後から「緊張しない」事が気持ちが強いのではなく、緊張しちゃうことも全ぶ受け入れた上でなおそれに打ち克って試合に臨むのが強さだとわかりました。

と、かいてるうちにあと4分。卓球のはなしばっかじゃねぇかwすこしは違う話もしましょう。

僕は今恋をしています。

だめだ、この話は4ふんじゃおわらん。そういえば最近思う大人になったなぁ、と思うのがメールにさほど執着しなくなったことでしょうか。昔はあんなに絵文字ひとつがきになったのに。

そういえばこの部ログは自分の今までの人生をたな卸しすると言う意味でつかってます。そしてわかったのが自分の人生は、笑い、漫画、小説、歴史、在日コリアン、卓球らへんだってことです。卓球は記事にしにくいのでこういうときにでてくるのか。

あと2分。ネタがないぞ。

あ、そういえばサッカーの解説者がよくいう試合の後とかに「これだからサッカーはすごいんですよ」みたいなコメントが大嫌いですよ。一瞬で流れが変わる、とかチームプレイが大事とか。そんなんどのスポーツもそうだから。それぞれによさがあるから。サッカーだけを特別だとおもってんじゃねえ。

あ、おれはサッカー好きです。本田に期待してます。今日も試合ですね。

************************

はい終了。

終わってみた感想としては、月に一回くらいこれやるの楽しそう。なんか自分でも予期しない話がぽんぽん出てきそうです。

ちなみに書いた量は1930文字で平均くらいなのかな。

この企画、テーマを決めて書くのも面白そうですね。またやろーっと。

というわけで読み返さずに投稿!

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笑いの分析⑫~すべり笑い~

"すべってしまった空気"を切り抜けるための方法

当たり前ですがだれの話も滑る時はあります。
優れたつっこみがいれば、何もしなくても滑ったことをフォローしてくれますがそうでないときに自分から"滑り笑い"を起こす方法を簡単にご紹介します。
(僕の場合"この人はつっこんでくれる"という信頼できる人がいない場ではあまり笑いを取りにいきません。臆病ですが、その方が確実なので。。)

すべったらあわてず騒がずともかく一呼吸しましょう。
これは大事です。大事、というか全てだと思います。

話が終わった瞬間もしくは終わりそうな時に「すべるな」と思ったら、笑ったりあわてたりせずに自信満々に話を終わらせて「もう終わりましたけど何か問題でも?」といった感じの澄まし顔で周りを見渡しましょう。
このまま澄まし顔を続ければ誰かが吹いてしまって、滑り笑いがとれます。
簡単でしょ?

大事なのは少しもうろたえたり困ってるような顔を見せてはいけないということです。
自信満々にやりましょう。

ぜひ活用してみてください。

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笑いの分析⑪~話がつまらない人2~

いきなり脱線ですが

最近のアクセス解析を見ていると「話がつまらない人」という記事へのアクセスが一番ということでちょっと違う観点からも書いて見ます。

話がつまらない、と一口で書いてしまいましたがどういう話がつまらないのか、といったことは場の雰囲気やその場のメンバーとの関係でだいぶ左右されます。

ここでは複数名の友人達との会話ということを前提に話を進ませていただきます。
それ以外の、上手な結婚式スピーチだとか、好きな人と二人きりでの会話だとか、年上の上司のご機嫌の取り方だとか、小さな星で界王様とゴリラと3人だけのときの会話だとか、本能寺のちょっとまえに光秀を怒らせないしゃべり方とか、おいしそうに草を食んでいるエアグルーブとの会話とかについては触れません。ちょっと僕の趣味を覗かせてみました。特に意味はありません。

ちなみに上の文章、全く笑えないと思いますが実際の会話の中ならいくつか笑いに変える方法があります。
・「長い」とつっこんでくれる信頼関係がある人がとなりにいるときはつっこまれるまでやる
・徐々に早口にして途中からガイジンぽくする。ガイジンしゃべりは何かと汎用性が高い。
・最後のほうに自分が好きな人とうまくしゃべれなかったという自虐をいれる
「~、あの中2の部活の帰り道にたまたま二人であるいたのにまったくしゃべれなかった時のうまい喋り方を、誰か教えてくれよぉぉ!」喋ってるうちに自分の世界に入っちゃった感じが出せればいける。その直後にまた平静に戻って羅列を続けるのもうける。
・思いっきり感情入れて喋る。(っていうか思いっきり感情入れたら大抵笑い取れるとは思いますが。)ただいれるだけじゃなくて言葉と感情をずらせばなお良い。
・上で挙げているような、特定の個人だけが遭遇しうるシチュエーションの場面を挙げる。特定の個人は今話題の人、もしくはグループ内でいじられキャラの人にする。
「~、"Yes We Can"を連発するアメリカ人相手に安全保障の話をしながら和やかに笑いを取る方法だとか、尿検査をしてこようとする警察官から元国民的アイドルの私が笑いで逃げる方法を教えてくれるとマンモスうれピー、・・・」どっちかと言ったらやっぱり身内の人のほうがいい。

脱線しすぎました。
そんな飛び道具は使えて3回まで(3回でも多いわ!)なので今回は「話がつまらない」と思われない方法について書きたいと思います。

どんな人が話がつまらないと思われるのか

ところでグループの中で話がつまらない人ってどれくらいいるでしょうか。
大体が一人、多くても二人かと思います。それ以上の場合は、そもそもそのグループの会話はそういうもんなのでしょう。つまらない、と感じているなら脱退したほうが良いです。
笑いは伝染するものなのでいずれあなたの笑いも彼らと同じになってしまいます。

このページをみている人は「あいつの話つまらないなー」って思う特定の誰かが身近にいると言う人がおおいのではないでしょうか。
他には「自分の話ってつまらないのかも」という不安を抱えていらっしゃるのかもしれません。(その場合は"面白い話し方"とかで検索する方が多いと思いますが)

ちょっとここでグループでの会話の構造について簡単に触れておきます。
多くの場合、

話題を振る人→共感→エピソード→共感→エピソード・・

⇒話題を振る人→共感・・・

といった流れになっているはずです。

誰かが「今朝電車でこんなことがあった」と言う話をします。
それに対して笑う、共感する、つっこむ、などの反応があります。
そこから「そういえばおれも前にこんなことがあってイラっとした」と流れて「イラっとするといえば近所にこんな人がいる~」といった形で話は流れていきます。
恐らく「話が面白い/つまらない」という見方が発生するのは「」でくくった個々人が1エピソード披露する状況の時かと思います。

話がつまらない理由

話がつまらないというのはかなりマイナスな状況で、明確にマイナス点となる要素がなければ、そうは思われません。
正直に言って「自分の話つまらないかも」と思える人の話は、つまらなくないと思います。本当につまらない人間はそれに気付かないうえ、誰にも指摘してもらえないので。

「話がつまらない」と思われてしまう理由は大きくわけて以下の3つです。

①自慢話をする。そのために他人を貶める

人は自分が優秀であることを誇示して優位に立ちたがるものです。
一方で他人がそんな話をしていると、自分はすぐれていないと言われているように感じてしまい不愉快に感じます。
そもそも自慢話は"すごい"と思うことはあっても"面白い"とは絶対になりません。
"面白い"になるのはむしろ失敗した話、ダメな話なのです。

②犯罪やモラルに反する行為、無闇な下ネタなど一般道徳に反する話をする

例え友達といえど相手が何を不快に思うのか、何が嫌いなのかなんてわからないことが多いのでやめておく方が無難です。
どんなに面白い話でも、相手の触れてはいけない部分に触れてしまったらそこで全て終わりです。

③空気を読めない。もしくは温度が読読めない

「空気が読めない」といいますが、多くの場合おそらく全く話の流れが読めないで、全く関係ない話をしてしむような純粋に「空気が読めない人」はあまりいないと思います。本当は「空気がよめない」のではなく「温度が読めていない」のです。
にぎやかの雰囲気の中でやけに暗い話をしたり、不必要にネガティブなオチをつけたり、自分しかわからない事(特に趣味は要注意)の話に熱中したりと場の温度よりも低すぎたり高すぎる話は場を白けさせます。この場合流れに沿った話でも「温度は読めない」人になってしまい、結果的に「空気が読めない」ということになります。
大体の場合、その話題に関して思いが強すぎると温度が読めずに空気を壊すような話になってしまいがちです。ここが矛盾してて難しいのですが、自分が話したい話ほど周りとの温度差は開いてしまうということです。(ただし、これらの話こそ使い方によっては笑いになるので、それについては別途書きたいと思います。少なくともこの時点では"マイナス点をなくす"という観点からやめておくのが無難です。)

オチなんて必要か?

自分の話がつまらないかも、と思う人の中には「オチがつかない」事を気にしている方が結構いるのではないでしょうか。

そういう方はまず、オチが必要なのか、という事を自問してみてください。
オチをつける、というのはある程度笑いをとる必要があるわけで、笑いを発生させるために必要ないくつかのことを、話しながら自然と出来る必要があるわけです。

なので僕は、友達と話すのにオチなんていらない、ということを主張します。
特にありがちなのが話が終わるころになって「あ、これただの感想だ」となり、相手の反応も「ふーん」となってしまうような気がして困る場合です。

そんな時どうすればいいかというと、気にしないでいいんです「ふーん」でいいんです。だって感想だもの。そういう感想とかも話したりしたいから一緒に居酒屋だのカフェだので喋ってるんですから。
無理にオチをつけようだとかしないでも、あなたの感想を聞いて話を思いついた誰かがまた違う話を始めてくれるはずです。

というわけで自分の話にオチがなくて焦る人への唯一の処方箋は
・素直に自分の感情表現をして次の誰かが繋いでくれるのを待つ
となります。あくまでも、マイナス点をなくすためにであって笑いがほしければやっぱりオチは必要ですけどね。

以上で話をつまらなくしないための、まずマイナス点をなくす方法について書きました。
でも現実には「オチをもとめられる空気になってる」だとか「どうしても話が終わった後の、"ふーん"の空気がつらい」とかあると思います。それにこうして検索してくるということはやっぱり「笑いがとりたい!」ですよね?
いずれ話を面白くする方法を自分なりに書こうと思います。(ハードルあがったなぁ)

ちなみに僕の友達に、たまに「やばい、オチがない」という顔をする人がいるのですが、僕はその焦った顔が大好きなのでこれからも貪欲にオチをつけてほしいと思ってます。むしろ「オチは?」という目をして彼を見るようにしています。いじめではありません。愛です。
たまに力技で笑いに変えてくることもあって、それがなおさら面白いです。

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水滸伝(北方謙三)

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)

本書は北方謙三による水滸伝である。
水滸伝を知らない方のためにまず簡単に説明をしておきます。

水滸伝は中国の宋時代のに、政府による悪政に立ち向かうために宋江など108人の豪傑が梁山泊と呼ばれる島に拠って政府に叛乱を起こすという古典小説です。
水滸伝にはロマンが溢れています。わずか数名の男達の決起から始まった梁山泊が、やがて人々の心に広がっていくさま、豪傑達によって次々と打ち破られる役人達、そして叛乱の行方。

しかしこの水滸伝、原本となる物語では豪傑の中に妖術を使うものがいて現実的ではなかったり、それぞれの生年や性格などの整合性がとれていないものでした。

それを現実的な時系列、人格に再構築し、実際に数千数万にも及ぶ人々が島に拠って叛乱を起こすための細事を綿密に描いたのが北方謙三による水滸伝です。

所詮は叛乱の徒であり税収などもない賊徒達がいかにしてその費用を手に入れるのか、いかにしてその志を繋ぎ、仲間を集うのか。
108人の豪傑達も、頭領はもちろん戦闘部隊の指揮官、軍師、さらには梁山泊数万人を養うための方法を考えるものや、病人を治す医者、各地に散らばる同志達を結ぶための通信網を構築するものなど、まさにひとつの国としての体をなすための役割がそれぞれに与えられています。

彼らにはそれぞれの苦悩があり信念があり、その根本には熱い志があります。
志のために与えられた役割の中で苦悩し、成長していく姿には胸が熱くなります。

同時に本書はどんなビジネス書にも勝る組織論の物語でもあります。
例えば梁山泊には宋江と晁蓋という二人の頭領がいます。
二人は互いに尊敬しあい、また108人も二人を仰ぐ事で志のために邁進するのです。

しかし、強気で精力溢れる晁蓋と、思慮深くマイナス思考でもある宋江の間にやがて溝が生まれます。
100万人とも言われる禁軍(政府軍)に対して島から出て本格的に叛乱を起こすにあたって晁蓋は3万人いればよいと主張し、宋江は10万人は必要だと主張します。
改革を受け入れる民の気勢が今まさに熟している。この機を逃してはならないという晁蓋。一方、民はそれほど強い生き物ではない、そして宋という国は晁蓋が思うほど弱くはないと考える宋江。二人の対立はやがて「お互いの顔も見たくない」程のものに発展してしまいます。そして晁蓋は宋江のもとを離れるように小規模な遠征にさえ出陣して行ってしまいます。
それでも二人はこの決断について軍師である呉用を除いてはお互いに他のものに相談をしてはならない、という事を決めてやっているのです。頭領としてグループを崩壊させるものが何なのかを二人はよくわかっています。

一方、軍師にあたる呉用は宋江に意見を問われてこう応えます。
「私はどちらの意見にも反対です」

呉用は梁山泊・宋政府それぞれの戦力、資力、人材や今後の見通しまで緻密に検査をあらゆるシミュレーションを繰り返した上でこう結論付けるのです。
「梁山泊は勝てません」

No3ともいえる存在である軍師がこんな事を言ってしまっていいのか、という考え方もできます。しかし、熱い志を持った頭領二人の意志とそれに従おうという数千数万の命を繋いで改革を現実のものにする手段を誰よりも考え続けているからこその言葉です。

さらには魯達という人物がいます。元は宋江の親友であり、梁山泊結成後は各地を回って有能な人材を探している人物です。魯達は常に梁山泊の外を回って官軍(政府軍)の指揮官までを勧誘したりしているからか梁山泊を客観的に眺めています。
その魯達は頭領たちの対立について次のように述べます。
「おれはどちらでもいいからどっちかに死んでもらいたいと思っていたよ」
―そうすれば意見はひとつになった上で、死んだほうの意志をつぐという名目で無茶も出来るし都合の悪いときにその死を利用する事もできる

宋江の親友であり梁山泊初期からのメンバーでありながら何と残酷で、そして実利的な意見でしょう。

このように108人は自分の役割を理解した上でそれぞれにあった考えを持ち、行動していきます。108人の中に必ず自分と重なる存在がいるはずです。

以上、組織論だとか書きましたが、はっきり言ってこの物語の肝はそんなとこではありません。
何が面白いのか、という問いに対して解があまりに多すぎてどれか一つをとって紹介する事が出来そうもありません。陳腐な言葉だけど男の夢とロマンが溢れるほどに詰め込まれている物語です。

どうか騙されたと思って1巻を手にとって見てください。

これほど面白い書物の魅力のかけらすら紹介する言葉を持っていない自分にいまがっかりしてしまうくらい、最高に面白い。

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ミームってなんだ?

お気に入りにいれて読んでいるブログの名前に「ミーム」という言葉が入っていて、ちょっと気になったので調べて見たら中々面白い。

ミームというのは社会的遺伝子とよばれるもので、それは例えば文化を形成したりする。
一般的に言われる遺伝子が、人間の形成や性格などを形作るための設計図である、ということに対してミームは人間が服を着たり、音楽を好んだり、ジーンズが流行ったり、人を殺したり、漫画が流行ったりという事象をもたらすものだと考えて欲しい。
例えば普通に考えれば1960年代にロックが流行ったのは人間の営みの中で選択されたものと考えると思う。ミームという概念でいうと、それは人の営みではなく「音楽が好きだ」というミームを多くの人が持っている中で、ある時誰かのミームが(遺伝子がそうなる事があるように)突然変異して「ロックっていい」というミームになったのだ。
ミームは自己複製、他者への感染を主体的に行っていき次第に大多数の人間の中に「ロックっていい」というミームが存在するようになった。

遺伝子(DNA)というのは人の体に手が何本あるだとか指の形だとかを決めるものだけど「手を使って文字を書く」ということはその役割には含まれていない。いわば人間のハードウェアの部分を形作っているのが遺伝子である。
ならば何がその手の使い方を人に伝えるのか、という点だ。もちろん、親に学ぶんだと言うことも出来る。では一番最初に手を使い始めた人は?何しろその時点では手というハードウェアがあるのみでその使い方なんて人間の中にはない。そこでミームが発生して人に「手を使って―」という行為を行わせたと考える。

このような考え方がミームであると僕は理解した。
(本とかを読んでいないのでたぶん間違ってる。というか理解もしていないからすげー間違ってるけど、でも気にしない。)

こういう新しい考え方がとても好きで、漠然と考えていたいくつかのなぞがすっきりする。
例えば生物は当たり前のように繁殖して、子孫を残そうとするけどそれは何のためなのか、という疑問。遺伝子にとって自分の子孫を残す事が重要である、というような意志はあるんだろうか。いや遺伝子に意思なんてないはず。ハードウェアにすぎない。
では長い目で見れば残す事に意味は無いのになぜ生物は当然のように繁殖をするのか。まずだって繁殖行為をするためには、ある程度手順を踏まなきゃいけないじゃない。記憶がまったくない人間がいたとして、「腹がすくから何か食べる」「眠いから目を閉じる」は体が求めてくるから自然とできると思う。でも「アレがこんなことになってるからあそこにこうする」だなんて無の状態からならないでしょう。
そこには人間を存続させる何かしらの意志がなくてはおかしい。それがミームだと考えたら合点がいく。ミームはたぶん、いわば最上の意思と呼ぶべき何かになりたくて、そうするために人間を宿としてつかっているんじゃないだろうか。だから器でしかない遺伝子の上にのっかって人間を色々と動かしながら楽しんでるんじゃないだろうか。

いきなり壮大な上に下衆な話になっちゃったけど小さいところで言うと「なんでハリーポッターなんかがあんなにうれてんの」という疑問。
僕も一巻だけ読んだ事があるけど、その時はちょっと話題になってきたくらいのときで「人間の描写が致命的に薄いから大人がこんなの楽しむはずが無い。魔法学校だとかの概念は子供には楽しいだろうけどこんな太いの子供は読まないだろう。スレーヤーズでも読んでたほうが楽しい」という感想だった。それがまさかこんなに流行るとは。
どう考えても「ハリーポッター楽しい」というミームが生まれて雑菌のように大増殖したに違いない。

これでわかってもらえたかもしれないけど、ミームという概念は僕にとって「納得のいかない流行」への反抗や「その流れにのれなかった自分の避難」のために使えるのだ。自分で自分を慰める事ができる。

もちろんこんなの概念遊びだってわかってるし、そもそもミーム論って僕が理解したものと全然ちがうだろう事もわかってるけど、何にせよ自分にいままでなかった新しい考え方で世界が見られるというのは楽しいものだ。
―そういうミームにたぶん、僕は感染している。

って考えたら何かよくない?

―そういうミームにたぶん、僕は・・・(ry

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伊坂幸太郎と重松清

最近伊坂幸太郎と重松清の小説を立て続けに読む機会があり、好対照で面白かったので覚書的にお二人の文章について自分なりの解釈をしておきたいと思います。

まず伊坂幸太郎について。
僕がこれまでに読んだ事があるのは「アヒルと鴨のコインロッカー」「陽気なギャングが地球を回す」「死神の精度」「重力ピエロ」の4つです。
いくつか読んで見た結論としては、彼は赤川次郎の系譜にいるということです。
彼の物語の特徴としては、登場人物の圧倒的な魅力、感傷的な心象描写の排除、程よい伏線のバラマキと回収、余韻が残らないスッキリとした読後感といったところでしょうか。
この辺は赤川次郎とほぼ同じで、赤川次郎の場合伏線の回収が強引な場合がありますが(何でも赤川次郎は結末を考えずに色んななぞをまず書いてしまって後からその解決を必死に考えるらしい)、伊坂幸太郎の場合は何度も推敲をするらしく、きれいに謎解きするようになっています。

かれの物語の登場人物はともかく魅力的な人物に溢れています。
どこかクセがあり、こんなやつ周りにいたら面白いな、と思わせるようなそんな個性的な人物が多くいます。
一方で登場人部の独り語りによる苦悩などの描写はほとんどなく、心理描写は、思ったこと、考えている事のレベルに留めています。
故に多くの読者は登場人物に自分を投影することなく、彼らの行為や会話を第三者的に除き見て楽しむという立場になります。
つまり伊坂幸太郎の小説は「友達が体験した面白い事件」のようなものであると僕は考えました。
それを可能にしているのはともかく登場人物の個性であるといえると思います。
しかもその個性を会話の中で読者に印象付けることができる技術こそが伊坂幸太郎の優れた点といえるでしょう。
その技術あってこそ、登場人物のことを全ての読者に「自分の友達」であるかのように思わせることが出来るのでしょう。
あの個性的なキャラクターが完全な創作であるのか、それともモデルがいるのかとても気になりました。

次いで重松清についてです。
村上春樹に次いで色んな人にオススメされる頻度が高い作家です。
僕が今回読んだのは「卒業」。

初読破の感想としては、まだ早かったかな、と言ったところです。
ちょっと横道にそれますが、僕は本であれ映画であれ出会うタイミングがとても重要だと思っています。
読む時の自分の状態によっては駄作が名作にもなり得るし、名作が駄作にもなり得ると思うからです。

さて、重松清の作品が全てそうなのか知りませんが「卒業」の大きなテーマは家族と死でした。

伊坂幸太郎を呼んだ直後に重松清を読むと二人の違いが際立ちました。
僕が感じた重松清の特徴は伊佐幸太郎の間反対といったところで、日々の中で悩む平凡な登場人物、感傷的な心象描写、伏線をはるというような発想すらなさそうなストレートなストーリー、余韻が残る読後感といったところでしょうか。
(こう考えるとこの2冊が本棚に並んでおいてあった友人の幅の広さにちょっとびっくり。)

「卒業」に関して言えばその主人公は全員40歳前後の男で家庭をもち仕事をしているという"主人公"とするには難しそうな人々だった。
彼らの家族や友人の死が訪れる中で、家族に対する感謝、恐れ、煩わしさや死に対する捉らえ方などが混ざった独特な心情になっていくところが、醜いところも含めて丁寧に描写されていました。心象描写だけではなく、たとえば表題作「卒業」におけるタバコなどの小物を、物語の支えとして配置する事で情景描写からも、心情を映し出している。
家族に対する思いという意味では最近特別に感謝と、申し訳なさが混じったような思いもあるし心揺さぶられるところがありました。

特別な事件が起こるでもなく、魅力的な登場人物がいるでもない物語でありながら、読者の心の一部に生手で触れてくるような描写力はやはり多くの人が薦めてくるだけのものはあったと思いました。

でも重松清のよさがわかる、というか読んでて苦しくて切なくなるのはもう少し年をとってからじゃないかな、とも感じました。僕の精神年齢が低いだけかもしれないけれど。

以上好対照な二人(そもそも二つしか比較するものがなけりゃあ対照にも見えるだろう、ってつっこみもあるが)についてとりとめもなくまとめて見ました。
どっかで書いた事がある気がするけど、僕の中で表現と言うのは2つの要素があって「受け手を意識したもの」と「発信者が自分の中身を吐き出したもの」という見方ができると思っています。
そういう見方で言うと伊坂幸太郎というのは「受け手を意識したもの」のスペシャリストだと思う。読者をいかに楽しませるか、そのためのあらゆる技術を磨いた人だと思うのです。(そこには「自分が楽しいと思うものを自分で作る」と言う意味で、「読者」の中に伊坂自身も含まれている。)
重松清も「受け手を意識したもの」を書いているとは思うが、彼の作品には彼自身が日々の生活の中で感じた事が多分に入っていると思う。
それは「発信者が自分の中身を吐き出したもの」であり、そして重松清が吐き出したものを多くの読者が同じように心の中に持っているということでしょう。ただ、まだ僕にはそういう思いが降り積もってはいないようでした。

ともかく、2冊続けて良い本にめぐり合わせてもらいました。感謝。

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秒速5センチメートル

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秒速5センチメートル。桜の花びらが落ちる速度だ。

幼い恋をいつまでも包み込むようで、でもいつかは地にたどり着いて季節の終わりを告げる速度。

"来年も一緒に桜を見よう"

それは恋のような、儚い約束だった。

新海誠監督作の3話から構成されている連作アニメ「秒速5センチメートル」。

第一話「桜花抄」

幼い遠野と明里の初恋を描いた第一話「桜花抄」

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僕たちはどこか似ている。

まだその気持ちを恋と呼ぶことも知らず、それでも遠野と明里はお互いの事を幼さゆえの純粋な心のままに必要としていた。

しかし、お互いに"慣れている"転校によって明里が遠くにいってしまい離れ離れになってしまう。
東京と栃木といえど、それは小学生にとってはあまりに遠すぎるものだった。

互いの事を失わないように手紙のやり取りをしているなか、遠く離れてから一年後、もう一度桜の季節が来る少し前に遠野の転校が決まる。
二人の距離をさらに遠ざける転校。物理的な距離が遠くなるほどに心の距離までも離れてしまうような気がして、二人は1年ぶりに会う約束をする。

初めて一人で来る新宿駅。靴を濡らす記録的な大雪。吹雪の中、遅々として進まない電車。

時間が悪意を持って二人の上を流れていった。

約束の時間から四時間遅れた、小さな駅の待合室に彼女が座っていた。

距離も、時間も、まだ二人の約束を引き裂く事はできなかった。

新雪で埋まった道に二人の足跡だけが残り、二人は幼い恋心を分かち合った。

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第二話「コスモナウト」

鹿児島に転向してきた遠野のことを想い続ける花苗の恋を描いた第2話「コスコナウト」

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高校3年の夏、クラスメイトが進路を決めていく中、自分が何したいのかだとか、未来のことだとかなんて考えられない花苗。
姉にねだって始めたサーフィンも、中2のころに転向してきた遠野への思いも、立ち止まったまま動けずに高校3年生という時が花苗を追い立てていた。

カブを止めた駐車場の前、柱の陰に隠れて遠野を待つのが日課だった。
偶然を装って遠野に声をかけて、帰り道いつものコンビニでどれにするかを悩みながらパックの飲み物を買って、少しの間だけベンチに座って二人きりでいられた。

彼はいつも誰かにメールを打っている。

駐車場で"偶然"に彼と会えなかった悲しい帰り道、小さな丘の下。道の端に彼のカブを見つけた。
駆け上がって見つけた彼はやはりメールを打っていたけど、いつものように優しい言葉で花苗の悩みを解いてくれた。

"あたし、明日の事もよくわからないんだよね"

"たぶん誰だってそうだよ。今できる事を何とかやってるだけ"

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彼の言葉はいつも、切ないほどにやさしい。

未来の事なんて考えられないんだから、目の前にあることを一つ一つ頑張っていく。
まだ夏がわずかに残る朝、そう姉に告げた花苗は、半年ぶりに波に乗ることができた。

今日じゃなければもう2度と遠野に思いを告げられそうにない。

いつものコンビニで花苗は悩まずに遠野と同じジュースを買った。

ベンチの前、ふいに遠野のシャツを掴んで花苗は声をしぼりだす。

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"やさしくしないで"

言葉にすればこわれてしまいそうな想い。それが花苗の精一杯だった。

それでもなお、カブが壊れてしまった花苗とともに歩いて帰ると言う遠野。

切ないほどの思いは花苗の心を締め付けて言葉にならない。

ただ涙だけが流れて来て、どこまでも高い空の下、花苗は自分の思いの行方を知った。

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第三話「秒速5センチメートル」

あの雪の日から時は流れ遠野は大人になっていた。

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ずっと心の中にある何かに手が届くようにと、ただ前に、前にと進んできた。
3年間付き合った女性は、「1000通メールのやりとりをしてもあなたとの心の距離は1センチしか近づかなかった」と遠野にメールをした。

明里は遠野にメールを送る。
「お久しぶりですね。ずいぶんと迷ったけど、やっぱり私は遠野くんに伝えなければいけないことがあります。」

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遮断機の向こう、電車が通り過ぎたあと、振り返った遠野の目にいつかと同じように桜の花びらが秒速5センチメートルで舞っていた。

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感想

感想なんて書く必要がない気もする。つまりは上のような文章を書きたくなってしまう作品だった。

自分の文章が読む人にどう見えるかっていうのはわからないけど、この作品で生まれた感情を残しておくために、気持ちのままに文章を書いた。
一部の男にとっての恋のかたちを生のまま取り出したようなきれいな物語だった。

ストーリーとは少し離れたところで感想を。
サマーウォーズとかエヴァンゲリオンみたいに、実写じゃ撮れないようなものを作り上げられることがアニメの長所だと思う。
それにくらべて秒速5センチメートルは、実写で撮れないようなものは一つもない。

でもどのワンシーンを切り取っても、どんなきれいな写真よりも、世界遺産の風景よりも、きれいな絵だった。
この作品の監督にはどんな風に世界が見えているんだろう。
どれだけの力があればそれをこんなにも鮮やかに表現できるのだろう。
みんな同じように景色が見えてるという当たり前のことが、本当はそうではないことを気づかされた。

嘘みたいだけど、これを見終わった後外に出たら空のきれいさにびっくりした。
そうやって少しづつ、僕も世界を見られるようになりたい。

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健康診断にはじめてひっかかった。

これまで大きな怪我や持病もなく過ごしてきた僕にとって健康診断でひっかかるというのは中々ショックな出来事でした。
しかも再診の理由が肉体的な問題ではなく、心の部分でした。

心については自分で客観視できてる方だと思っていたし、体よりもむしろ心の方が健康なんじゃないかってくらい自信がありました。この先も壊れてしまうような事はたぶんないと思いますが貴重な体験ではありました。

前回受信時(2008/12)と今回(2009/7)の健康診断のときに提出した

体がだるい すごくそうだ まあまあそうだ そうでもない まったくちがう
やる気がおきない すごくそうだ まあまあそうだ そうでもない まったくちがう

みたいな質問表を面談時に比較する形で見せられてビックリしたのですが、ほとんどの項目で前回は「大丈夫」的な回答をしていたのに、今回はほぼ全て「まずい」的な回答になっていました。
確かに決して気分良く働いていたわけではないけど、自分でも知らぬ間にここまで違かったのかーってくらい変わっていてビックリです。

面談をしたおばさんはやけに明るくて、ストレスの原因となっている人間関係について「でも自分も悪いんで」みたいな事を僕が言ってしまうのに対して意識的に「相手が悪い」といってくれているようでした。たぶん患者に変わって批判をしてあげる事で患者の気分を和らげようとしてるんだなぁ、と思いました。

いきなり別の話だけど、僕は運命を信じています。
もう少しやわらかい言い方をすれば、どんな出来事にも意味があると思っています。
小さい頃から家がごたごたしてたのは、ちょっと頭が回るからといって調子に乗りがちだった自分を少し暗い性格にするための神様の調整だと思ってるし、背が低いのも運動神経が悪いのもまぁ、何らかの調整なんだろうなと。
では、今回職場であんなに腹立たしい先輩にぶつかってしまったのはなぜか。
「おまえ、給料が良くて何かと甘いからといってこのまま流されて定年までその会社で働こうなんて思うなよ」という神様の調整に違いないと考えています。

一刻も早くこの人間関係地獄から抜け出したいという気持ちもありますし、一方で今のこの気持ちを忘れないように心に刻んでおきたいとも思います。

それに、これまで人間関係を「好きor嫌い」だけで振り分けて、嫌いな人とはたとえ1分の雑談でもしたくないと考えてきました。今回、嫌いな人間と数日間も連続で2人きりで仕事をしたりという経験ができた事も、ありがたい、と思う事にしておきます。

でもやっぱり、客観的に見てここ2ヶ月ほど僕はやっぱり病んでいたと思う。
そもそも平日は2時間おきに目が覚めてしまって熟睡できてなかったし、月曜日の朝をこんなにも憂鬱に感じた事も初めてだし、自分の考えを言うたびにビクビクとしてしまうのも初めてだった。

普段から一人でいる時はわりかし暗くて夜中にふらっと川が見たくなって自転車に乗ってしまような所があったけど、それは友達と合っている時や仕事の時に明るくしすぎる状態とバランスをとっているようなものだったと思う。

ここ最近はさすがに暗いほうに偏りすぎていた。
といって仕事の事だけじゃなくほかにも色々とあるんだけど、そっちは辛いというより情けないという思いのほうが強い。

ちょうど最近読んだ重松清の小説で、自殺に関してこんなたとえ話をしていた。
(引用じゃなくて自分なりの解釈です)

人は誰もが"生"のコップのようなものを持っていて、そのサイズや入っている水の量は違う。
そのコップは絶えず揺れていて、人によって少しの傾きでも水はこぼれてしまうし、サイズが小さなコップでも水が少なければなかなかこぼれない。
水の量は周りの影響で日々変わるし、揺れは自分の心次第で変わる。

念のため言っておくと僕は絶対に自殺しない。
なぜなら僕のコップの周りにも同じように沢山のコップがあってお互いに倒れないようにしてくれているからだ。
その支えに対して僕は誠実でありたいと思ってるし、裏切りたくない。

ただ、これまでは自分のコップは下のほうに穴が開いていてたぶん入ってきた水を全部外に吐き出してるんだろうなと考えていたけど、ここ最近の四方山事のおかげで自分のコップが存外に小さかったことに気がついた。
朝になって目がさめたら家中に食器の破片が散らばっていても、見知らぬ女が包丁もって来ても、一番強かった、憧れだった、恐かった、守って欲しかった人に毎日「殺す」といわれても平気だったのは水が入ってこないからじゃなくて、いつも近くに誰かがいてくれたからだった。
そして今、やっぱりこのコップは倒れないと思えるし、倒さないためにするべきことが分かった。

こんな記事、人が書いていたらすごく嫌な気分になるけど、せっかくなので今の自分を忘
れないために。それにしても高校生の頃のほうがもうちょっとましな文章書いてた気がする。

せっかく糞みたいな記事なのでもう一言。

ブログを始めると同時に色んな人のブログを読みながら、面白い記事やためになる記事、などブログの世界というものに感動しました。
そのせいで、自分も「価値のある」ブログを書きたいと思ってしまい、結果的に随分とそっちに偏ってしまったような気がします。(「え、どこが価値あるの?」とか言わないの♪)

中学生位の頃は、学校に提出するものに関してはわかりやすく"価値のある"ものを書き、家に帰っては日記に"価値のない"言葉をぶん投げただけの駄文を書くという毎日でした。
いまでもそれは治っていないらしく、せっかくブログ始めたんだし価値がない方も書いちゃえばいいじゃん、と思ったのです。本当はぶん投げちゃってるような文も好きなのです。

このブログを読んでくださっている方の中に現実でも付き合いがある方が数名いて、現実の僕とのギャップをあまりみせたくないな、とかっこつけていた部分もありました。現実で繋がりがある方に読まれるのはやっぱり恥ずかしいですが、ま、「こいつ痛いな」と思っても直接言わないであげてくださいね。痛さが限界に達したらそっとお気に入りから削除してあげてください。

と、これからどんだけ痛い記事ばっか書くんだよっていうフリみたいになっちゃってますが今までのようなレビュー記事みたいなのも書きます。ただ、どうしても一言断っておきたくなってしまう性格なのです。
いずれにしろたぶんレビュー記事以外はほんとに糞ぶん投げてやりたくなるような文章になると思います。そう思ったらあなたの出したてほやほやの糞を僕の記事のページにぶん投げてください。たぶんディスプレイが茶色になります。場合によっては黒かもしれませんね。白だったら病院にいきましょう。っていうか何の話だ?

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